[#表紙(img/表紙.jpg)] シュタイナー入門 小杉英了 目 次  はじめに[#「はじめに」はゴシック体]  第一章[#「第一章」はゴシック体] 教育思想の源泉[#「教育思想の源泉」はゴシック体]       ——他者への目覚め[#「——他者への目覚め」はゴシック体]  第二章[#「第二章」はゴシック体] 認識の探究者[#「認識の探究者」はゴシック体]       ——カント、フィヒテ、ゲーテをめぐって[#「——カント、フィヒテ、ゲーテをめぐって」はゴシック体]  第三章[#「第三章」はゴシック体] それは「オカルト」なのか?[#「それは「オカルト」なのか?」はゴシック体]       ——西洋と東洋の霊性史[#「——西洋と東洋の霊性史」はゴシック体]  第四章[#「第四章」はゴシック体] 神智学運動へ[#「神智学運動へ」はゴシック体]       ——ブラヴァツキーの闘い[#「——ブラヴァツキーの闘い」はゴシック体]  第五章[#「第五章」はゴシック体] ドイツ精神文化の霊学[#「ドイツ精神文化の霊学」はゴシック体]       ——純粋思考と帰依の感情[#「——純粋思考と帰依の感情」はゴシック体]  第六章[#「第六章」はゴシック体] 戦争と廃墟の中で[#「戦争と廃墟の中で」はゴシック体]       ——「国民」になる以外、生きる道はないのか![#「——「国民」になる以外、生きる道はないのか!」はゴシック体]  第七章[#「第七章」はゴシック体] 魂の共同体[#「魂の共同体」はゴシック体]       ——ナチスの攻撃と人間の悲しみ[#「——ナチスの攻撃と人間の悲しみ」はゴシック体]  あとがき[#「あとがき」はゴシック体]  主要参考文献[#「主要参考文献」はゴシック体] [#改ページ]  はじめに[#「はじめに」はゴシック体]  本著は、ルドルフ・シュタイナー(一八六一—一九二五年)の思想と行動を、彼が生きた時代の歴史的背景を掘り下げつつ、描き出そうとした評伝である。誕生から死まで、彼の人生の歩みにそって書き進めたが、彼の立脚点を明らかにするために、およそ二千年にわたる東西の精神史を座標軸に組み込まなければならなかった。  シュタイナーの思想が日本語で紹介されるようになってから、四半世紀がたとうとしている。二〇〇〇年九月現在、翻訳出版された著作は八〇点に迫り、関連書籍はその二倍をゆうに越えている。さまざまな個人や研究グループの地道な活動と、教育分野での実践的な試みが、シュタイナーに対する人々の関心を呼び起こしてきた。東洋と西洋とが結びついて、新しい時代を求めている証拠と言えるだろう。  いわばその末席に本著を送り出すにあたって、私は、シュタイナーのことを、あらゆる民族性を超越した普遍的なヒューマニストとして描写しはしなかった。筆者が蛮勇をふるったのは、ナショナリズムという火中の栗を拾ってでも、あえてこの人物を、ドイツ民族の精神文化の中に位置づけることだった。はたしてそれは私の恣意だろうか。  一九世紀後半にバルカン半島に生まれ、世紀の変わり目を踏み越えて第一次世界大戦のさなかを生き抜き、ナチス台頭の軍靴を目のあたりにしながら逝ったシュタイナーの中に、私は、一人の思想の格闘家を見る。そして、彼がいったい何のためにかくも闘ったのかを思うとき、ドイツ精神文化の復興にかけた彼の真意を、もはや私は疑うことができなくなったのである。  一つの人物像に彫塑的なリアリティを与えようと思えば、厳選した角度から光線を照射するほかない。その意味でこの『シュタイナー入門』は、あまたある門の一つである。おそらく最良の門とは、一人ひとりが自分で作る門であろうが、いずれにせよ、どんな門も方便である。この門通過ののちは、直接、シュタイナーの著作に取り組まれんことを。 [#改ページ]   第一章[#「第一章」はゴシック体]   教育思想の源泉[#「教育思想の源泉」はゴシック体]   他者への目覚め[#「他者への目覚め」はゴシック体] [#改ページ] †ショックだった学校生活[#「†ショックだった学校生活」はゴシック体]  ルドルフ・シュタイナーが生まれたのは、一八六一年二月二七日(一説に二五日が誕生日で二七日は洗礼日)、オーストリア帝国辺境の地であるバルカン半島の小さな町クラリエヴェックである。今で言えば、クロアチア共和国の首都ザグレブの南東にあたる。出生地の地理的条件は、その後のシュタイナーの人生を暗示している。  父ヨハン・シュタイナーは、代々、低地オーストリア地方のホーヨース家に仕える森番の家の出だったが、ホーヨース家領内のホルンという町に住む旧家の娘フランチェスカ・ブリーと恋に落ち、駆け落ちした。すでにそのときフランチェスカのお腹にはルドルフがいた。家族を養っていくために、ヨハンはモールス信号を習い、通信技師の資格を取って、オーストリア南部鉄道に勤めることとなった。  森番から鉄道の通信技師へという変身は、一九世紀を象徴する転身である。シュタイナー一家は中世さながらの生活から抜け出して、近代科学技術文明のただ中へと飛び込んだのだが、クラリエヴェックは近代都市とはほど遠い片田舎であった。真新しい機関車が煙をもうもうと噴き上げながら、のどかな低地オーストリアの山並みに溶け込んでいく、そうした環境の中でシュタイナーは生まれた。 [#挿絵(img/fig1.jpg)]   ◆主な居住地 *〈 〉内はシュタイナーの年齢 [#ここから3字下げ] 1861−62〈0−1〉  出生地 クラリエヴェック 1863−69〈2−8〉  幼少時代 ポットシャッハ 1869−79〈8−18〉  少年時代 ノイデルフル ウィーナー・ノイシュタットの実業学校に通う。 1879−90〈18−29〉  ウィーン時代 ウィーン郊外の町インツェルスドルフからウィーン工科大学へ通い、卒業後はシュペヒト家の家庭教師となる。 1890−97〈29−36〉  ワイマール時代 ゲーテ文庫に勤務。 1897−  〈36− 〉  ベルリン時代 1913−25〈52−64〉  ドルナハ時代 ベルリンにも居住。 [#ここで字下げ終わり]  学齢期に達したシュタイナーは、オーストリアのポットシャッハという町で小学校に入学する。この小学校の先生はすっかり老けこんだおじいさんで、教育熱心にはほど遠かった。彼には妻と、シュタイナーと同じくらいの年齢の男の子がいたが、この子というのが、シュタイナーに言わせれば、とんでもない悪ガキだった。シュタイナーは子ども心にも、こんな悪ガキの親から学ぶことなど何もない、と思ったそうである。  そう思ったシュタイナーの確信は、ほどなく現実のものとなる。学校に通いはじめてしばらくしたある日、この悪ガキが手に負えないいたずらをやらかした。放課後、教室のインク壺に木っ端をつっこみ、教室中になすりつけてインクだらけにしてしまったのだ。  悪ガキの父親であるおじいさん先生が、現場を発見する。そこにはシュタイナーのほか数人の子どもたちがいた。先生は猛烈に怒ったが、誰が犯人かは見抜いたようだった。しかしそこへ、その子の母親が、つまり先生の妻が飛び込んできた。子どもたちは彼女のことを「女先生」と呼んでいた。その女先生は、自分のかわいい子どもがこんなひどいことをするわけがないと思い込み、あろうことか、一切の罪をシュタイナーに押しつけたのだ。シュタイナーは激しいショックを受けてその場を走り去り、家まで駆けに駆けた。  事情を聞いたシュタイナーの父ヨハンは、かんかんに怒った。そして数日後、教師一家がシュタイナーの家を訪れたとき、彼らに対して絶交を言い渡し、息子を二度とおまえの学校へは行かせない、と宣言したのである。こうしてシュタイナーは、父ヨハンの決意によって登校拒否児となったわけだ。  学校へ行かなくなったシュタイナーの教育を引き受けたのは、彼を学校へは行かせないと言いきったヨハンだった。シュタイナーに対する最初の教育者はヨハン・シュタイナーで、これぞいわゆる「シュタイナー教育」のはしりである。  そうはいっても、ヨハンは教育者ではない。ほんの数年前までは森番であり、今は駅の通信技師である。シュタイナーは毎日、駅舎に連れて行かれ、父の机のそばで、何時間も読み書きの練習をさせられるのだった。それはそれは退屈な日々だった。 †二つの世界と幾何学[#「†二つの世界と幾何学」はゴシック体]  シュタイナーが八歳(一八六九年)になると、一家はまた引っ越した。オーストリアの国境に近いハンガリーの小さな町ノイデルフルである(現在はオーストリアのニーダーエーステライヒ州)。シュタイナーはヨハン先生から卒業し、地元の小学校へ通うことになった。そこでシュタイナーは、ようやく勉強らしい勉強をはじめることになった。  彼が最初に心を惹きつけられたのは、なんと、幾何学であった。自伝では、「幾何学に接することによって初めて幸福というものを知った」と述べている(『シュタイナー自伝』伊藤勉・中村康二訳 人智学出版社)。幾何学に接して幸福を知るとは、ずいぶん変わった子である。この個性を理解するには、彼独自の魂の性質について触れなければならない。  幼い頃からシュタイナーには、二つの異なる世界が存在した。一つは感覚によってとらえられる物質の世界である。この世界はシュタイナーにとって、見れば見るほど疑問と関心とをかきたてられる、謎に満ちた世界であった。  もう一つの別な世界とは、魂の舞台でくりひろげられる世界である。魂の世界では、感覚ではとらえられないけれども、それよりもっとリアルな存在や出来事が現れては、消えていくのだった。シュタイナーにとってこの世界は、否定しようのない現実であった。それどころか、感覚がとらえる物質の世界よりも、もっと親しみのもてる世界だった。  けれども、魂の舞台に現れる世界について、シュタイナーは誰とも語り合うことができなかった。親に話しても、そんなものは空想にすぎない、と言われるだけだった。そう言われるのはつらかった。彼にとって魂の世界は、まぎれもない現実だったからだ。誰にも理解してもらえない心の世界について、一人で思い悩んでいたとき、幾何学と出会ったのである。  シュタイナーが一〇歳のときだった。小学校の補助教員がとても親切にしてくれた。彼の部屋を訪れたとき、幾何学の本を見つけた。一読、シュタイナーは熱中する。なぜならそこには、感覚世界とは関わりなく、心の中で純粋に形態を直観する体験が存在したからだ。  幾何学は一定の約束事の上に成り立っている。たとえば、幾何学で「点」と言えば、長さも、広がりももたないものだ。けれども、感覚でとらえる物質世界には、長さもなければ広がりももたないものなど存在しない。だから幾何学は、感覚的には存在しないものを思考の対象とすることによって成り立っている。  そして私たちは、幾何学によって物質世界の成り立ちや、そこに働く作用力を分析し、計測し、たとえば建物を作ったりする。幾何学によって、感覚的に知覚できない世界を思考することで、感覚的に知覚できる世界の法則を解き明かしているのである。このことを通して幾何学は、シュタイナーに、魂の世界が物質の世界と密接不可分の関係にあることを教えてくれたのだ。  もちろん、一〇歳の子どもがそこまで考えたわけではない。しかし、魂の世界のリアリティをまったく疑うことのできなかったシュタイナーに、幾何学は、純粋に内面において直観される世界があること、そしてその世界が、物質世界の成り立ちと不可分の関係にあることを教えてくれて、不安で孤独だった心を内側から支えてくれたのである。 †補習授業[#「†補習授業」はゴシック体]  小学校を卒業したシュタイナーは、父の意向にしたがって、ギムナジウムではなく実業学校に進んだ。父は将来息子を、鉄道技師にしようと思ったのだ。  実業学校に入りたての頃、シュタイナーは授業についていくのがやっとだった。最初の二年間はかなり苦労したらしい。けれども、十代も半ばになると、教師たちからかなりできる生徒として認められるようになった。そしてある日、教師たちがシュタイナーに、授業についていけない生徒たちの勉強を見てやってくれないか、ともちかけたのである。こうしてシュタイナーは、一五歳のときから、自分と同学年かもしくは年下の生徒たちに、補習授業を行うようになった。  この補習はわずかでも有償であった。シュタイナーにとっては貴重な収入である。妹(レオポルディーネ)や弟(ギュスターヴ)もいる中で、両親が乏しい給料から自分の学費を工面してくれていることに、シュタイナーは心を痛めていたのである。しかし、そのこと以上に補習授業は、シュタイナーにとって、もっと本質的に貴重な経験となった。  補習授業はシュタイナーに、二つのことを気づかせた。一つは自分の意識の目覚めであり、もう一つは他者の多様さである。  授業を聞いて学習しているだけのとき、意識は受け身である。教えられることをただ受け容れている。それに対して、授業についていけない生徒に教えようとするとき、学習を通して得た知識を、もう一度自分の中で活性化させ、相手にわかるように作り直さなければならない。それはシュタイナーにとって、意識の覚醒を呼び起こす体験だった。そのときの意識と比べると、授業を聞いているときの意識は、白昼夢のようにすら思えた。  その覚醒した意識状態で、他者に何ごとかを教えようとするとき、さらに新しい課題が生じた。自分が目覚めるだけでなく、他者の内部にも目覚めなければならないのだった。自分が獲得した知識を、自分以外の誰かの精神に流し込み、理解させるには、まず他者の個性を理解しなければならない。知識を他者に受容されるにふさわしい形式に作り直すためには、他者の内部にも目覚めなければならないのである。  ところが、他者とはなんと多様だろう。一人ひとり個性もちがえば、感性もちがう。育った環境も、人生経験もちがう。それだけではない。人間はその成長過程で、多かれ少なかれ、心のどこかに何らかの傷を負っているものだ。アルチュール・ランボーではないが、「無傷な心がどこにあろう!」。その傷が、人間の精神に一定の傾向性を——ちょっとした偏向から、明らかに障害と思われるようなものまで——おびさせる。  シュタイナーだってそうだったはずだ。彼が何ごとかを理解し、自分の精神に受容するその仕方は、彼の個性と結びついていた。彼だけの学習なら、それでもよい。しかし、それを他者に伝えるとなると、まずシュタイナーは、自分自身の個性を理解し、自分の理解の仕方が必然的におびている特定のかたよりに目覚めなければならないし、それと同時に、今自分が何ごとかを教えようとしている相手の個性を理解しようと努力し、その個性にふさわしい受容形式を、自分の精神活動を通して作り出さなければならない。これが、他者の内部に目覚める、ということである。  自分だって一人の生徒にすぎないシュタイナーにしてみれば、この課題は決して楽にこなせるものではなかったろう。けれどもシュタイナーは、補習授業に打ち込んだ。そして、他者に目覚めつつ何ごとかを教えるという精神作業は、彼の一生の仕事となっていくのである。  一つの知識内容を、多様な相手の個性や人格にふさわしく、その都度、多様に作り変えること。それはちょうど、一つの植物の種から無数の花のヴァリエーションが咲き匂うのに似ている。それは変容しつつ自己形成する、生命に固有な本質である。  ただ時折、シュタイナーは困ったことになった。与えられたテーマで同級生に作文を教えてあげるとき、とっておきのパターンをつい使ってしまい、いざ自分の作文に取りかかろうとすると、もうそれが使えないのだった。 †運命的な出会い[#「†運命的な出会い」はゴシック体]  実業学校を卒業したシュタイナーは、ウィーン工科大学へ進む。その間も、他者に何ごとかを教える仕事は、家庭教師として続けられた。この頃シュタイナーは、大学の学費を免除され、奨学金も受け、家庭教師のアルバイト収入もあったので、ほぼ自活できるようになった。大学を出てからもシュタイナーは、これといった職業に就かず、家庭教師を主な収入源にした。当時、家庭教師先の家に何年も住み込んで、そこの子どもたちを教えながら、自分の研究生活を続ける学究がけっこういた。シュタイナーも、そうした学究の一人となった。  二三歳のとき(一八八四年)、シュタイナーは、ウィーンに住む貿易商のシュペヒト家に、家庭教師として住み込むことになる。シュペヒト家には四人の男の子がいた。上の三人は特に問題がなかったが、末っ子で一〇歳のエルンストは、両親にとって胸痛む子だった。重い水頭症に罹っていたのである。  水頭症は、通常よりも肥大した脳室に髄液がたまることによって、頭蓋腔の内圧が上がり、身体障害や知能の発育不全といった精神障害を引き起こす病気である。現在では比較的簡単な手術で完治することもあるが、当時は不治の病であった。  実際、シュタイナーがシュペヒト家を訪れた頃のエルンスト少年は、読み書き計算がまったくできないのはもちろんのこと、ほんのわずかの時間でも勉強させようとして机に向かわせようものなら、たちまちはげしい頭痛を起こして顔面が蒼白になってしまうのだった。家の者が注意してみていないと、いつの間にか台所のゴミ箱に頭をつっこみ、残飯をわしづかみにして食べているようなありさまだった。誰もが教育は不可能だと思っていた。  エルンスト少年との出会いに運命的なものを感じたシュタイナーは、一大決心をする。少年の両親に、この子の教育を自分にまかせてくれないでしょうか、と申し出るのである。シュペヒト夫妻は驚きながらも、シュタイナーを信頼することにした。二三歳の若きシュタイナーは、重い課題を自分から引き受けたのである。  それから毎日、シュタイナーの格闘がはじまった。シュタイナーはまず、少年をじっくり観察した。するとやがて、その子の内部に、閉じこめられた状態に今はあるけれども、非常に高い精神的な能力が秘められている、と確信するようになった。シュタイナーは少年に、自分の肉体的機能をコントロールできる力を徐々に身につけさせるところから、働きかけを開始した。  しばらくして、二人の間に信頼が芽生えた。ときとともに、エルンスト少年はシュタイナーのことを心から信頼するようになる。そうなると、シュタイナーがそばにいるだけで、少年の魂の力が自分から芽生え出ようとするようになっていった。  しかし、この段階では、まだ教育を行うところまではいかない。少しの時間でも精神を集中させると、たちまち偏頭痛を起こして健康状態が悪化するのだった。授業に入るには、特別の配慮が必要だった。  そこでシュタイナーは、当時の最新の心理学、医学、治療学に取り組む。偶然にもシュペヒト家の主治医が、ヒステリーの専門家で、フロイトの共同研究者でもあったヨゼフ・ブロイアーだった。シュタイナーは彼から精神病理学をも学ぶ。  そうはいっても、学問は学問なのだ。シュタイナーにとっては、学問的成果の実験台として少年の教育をとらえることは決してできなかった。学問的成果はすべて、エルンスト少年という生身の存在に接近するための、秘められた道具でなければならなかった。シュタイナーは細心の注意を払って、学問から得たことを、日々の授業の中に溶かし込んでいく。  彼が採った方法はこうである。知性や論理を通して学習させるのではなく、感性や感情を通して、遊びながら学ばせることに努めたのだ。いわば、最高の学問的研究成果を、真剣な遊びに変容させようとしたのである。  少年を引き受けてから二年後、エルンストは小学校の授業についていけるようになった。ギムナジウムの試験にも合格した。水頭症は軽微になった。シュタイナーは、エルンストを公立学校に行かせるよう両親に勧めた。同年代の少年たちと共同生活をする中で成長することが必要だ、と考えたからである。エルンストはその後、大学の医学部に進み、医者になったが、残念なことに第一次世界大戦に従軍して病没する。まだ三十代の若さだった。 †教育思想の源泉[#「†教育思想の源泉」はゴシック体]  エルンストとの出会いをふり返って、シュタイナーはこう述べている。 [#2字下げ] 私は、自分がこのような環境に投げ込まれたことに対して、運命に感謝せざるを得ない。なぜなら、このような環境にいたからこそ、私は生きた方法で、人間本性に関する認識を獲得しえたからである。別の方法をもってしては、このように生き生きした方法でもって人間本性を洞察することはできなかったであろう。 [#地付き]——『シュタイナー自伝』 [#ここで字下げ終わり]  この人生課題を引き受けたことは、シュタイナーにとって最高の自己教育となった。彼は見出したのだ。人間に内在する精神的諸力が、肉体的諸条件の中で葛藤し、ときに協調しながら、その人間にかけがえのない個性を作り出していくことを。  人間に内在する本質を、シュタイナーは霊的なものとしてとらえた。それが、その人の肉体も含めて、生まれ育った環境の中で、みずからを開花させようとして成長する場が、魂なのである。シュタイナーはエルンスト少年とともに成長することを通して、人間における霊的なものと肉体的なものとが、魂において結びつこうとするプロセスを、生き生きと学ぶことができた。  シュタイナーは言う、「教育と授業が、真の人間認識に基礎を置く、一つの芸術になるべきだ」(同著)と。この言葉は、エルンストとの六年に及ぶ共同生活の中から生まれた。エルンストだけではない。シュタイナーはシュペヒト家での六年間、四人の少年たちを教育し、その両親と教育をめぐって日々熱心に話し合った。一五歳からの補習授業にはじまって、ほぼ三〇歳を過ぎる頃まで、シュタイナーは一貫して教育者として生活している。十五年にわたるこの人生体験の中に、彼の教育思想の源泉があるのである。 †どこから理念を獲得すべきか[#「†どこから理念を獲得すべきか」はゴシック体]  現在ここ日本では、大きな書店に行けば、シュタイナーの教育思想に関する本は何冊でも手に入る。シュタイナーの翻訳も多いし、解説書、紹介書から、実践的な内容のものまで、幅広く出回っている。書籍だけではない。具体的な取り組みも各地で盛んに行われている。あるところではカリキュラムが語られ、別なところでは学校づくりのプランが話し合われている。あたかも、乾ききった砂漠が貪欲に水を吸い込むように、シュタイナーの教育思想はいたるところで求められているようである。  では、シュタイナーの教育思想から、真に学ぶべきこととは何なのか。  それにしても、私は想像しないではいられない。大学を出たばかり若造が、不治の病と信じられている水頭症を患った子どもを、自分にまかせてほしい、と切り出すのだ。たいへんな決心である。なるほどシュタイナーは人並みすぐれた人物かもしれない。でも、彼がすぐれた人物だったから、エルンスト少年を理想的に教育できたのだ、と考えるのでは、彼から何も学ばないに等しいというものではないか。  二三歳のシュタイナーが、エルンスト少年を前にして途方に暮れたことだって、再三再四あったろうと私は思う。自分なりに考え抜いて、よかれと思ってやってみたことが、とんでもない結果をひきおこして、顔面蒼白になって頭痛を訴える少年の前で、自分もまた顔面蒼白になりながら、ああ、どうしたらいいんだろうと、胸を痛めて思い悩む若きシュタイナーがいたはずなのである。  シュタイナーを理想視する人には気に入らないイメージかもしれないし、実際私がこの目で見たわけじゃないから、そうだと断言するわけではないが、私が言いたいのは、現実のまっただ中で、真摯《しんし》に奮闘努力する生身の人間からこそ、理想と呼ばれうる思想がにじみ出る、と言うことである。  自分にとって理想的に感じられる何かと出会ったとき——いわゆる「シュタイナー教育」でもなんでもいいが——、その理想を、理想的に、美しく語ることには、なんの意味もないのである。理想が語られねばならないとしたら、それは、その理想が、心やさしき人々を慰めてくれるからではなく、そのような理想を心の底から求めずにはいられないような現実が存在するからであり、そのような現実の中で生きるしかない人間が、現に存在するからである。  今日、シュタイナーの教育思想に、あるいは人智学そのものに、いたずらに「答え」を求める人がいる。あるいは「救い」と言ってもいい。けれども、「答え」を真に欲しているのは、個々の、具体的な現実である。である以上、必要とされる「答え」は多種多様でなければならない。  シュタイナーの教育思想に美しい理想を投影する人は、そこに直接「答え」を求めがちである。しかし、本当はその人自身が、自分で、自分の立っている現実の中から、ほかならぬその現実が欲している「答え」を見出そうと努力するのでなければ、どこにも「答え」などないのである。  じゃあ、シュタイナーの思想の生かしどころはどこなのかというと、それは、自分の現実と向き合い、その中で格闘する魂の現場をおいてほかにない。シュタイナーが彼の人生の中で、たえず踏みとどまり続けた現場である。  彼が自分の人生の現場で格闘しつつ、その都度つかみ取っていった理念。その獲得のプロセスから学ばずに、ただ彼の残した思想を、あたかもそこにすべての「答え」があるかのような理想として利用しようとする人、あるいはまた、そこにすべての「答え」があるはずだと要求する人は、自分の心を癒すだけの卑しいおしゃべりによって、本来自分が苦労してそこから「答え」を作り上げるべき唯一の現場である自分の現実を、見失っているのである。 [#改ページ]   第二章[#「第二章」はゴシック体]   認識の探究者[#「認識の探究者」はゴシック体]   カント、フィヒテ、ゲーテをめぐって[#「カント、フィヒテ、ゲーテをめぐって」はゴシック体] [#改ページ] †自然科学的な思考の特徴[#「†自然科学的な思考の特徴」はゴシック体]  さて、一五歳から教育者の卵として人生を歩み出したシュタイナーには、もう一つ本来の人生課題があった。それは、感覚によって把握できる外なる世界と、感覚にはとらえられないけれども、魂の中で現に存在している内なる世界との間に、どうやって橋を架けるか、という課題である。  自分の魂に立ち現れる世界は、大人たちが言うように、夢の像と同じ実体のない世界なのではなく、それ自身、現実的な何かであることについて、シュタイナーには確かな実感があった。幾何学に取り組んでいるときに、自分の内部で働く直観的思考には、生き生きとした現実的な力があると確信できた。  ところが、実業学校で教わった自然科学はちがうのだった。そこで使われる思考は、どうもしっくりこなかった。学校ではこう習った。自然は一定の法則によって成り立っている。その自然法則を観察を通して見出すのが、科学だと。  ここで求められる思考は、こんな在り方をしている。まず、観察対象として自然現象が私の外に存在する。私は対象を外側から分析し、その結果を合法則的な定式に整理する。そして、自然法則が見出される——。けれども、この思考の在り方は、シュタイナーにとって、死体を解剖するときのような、冷え冷えとした感触を与えるのだった。  実際に、目の前にある自然は生きている。動物は年がら年中動きまわっては、食べ物をあさり、生殖をいとなむ。植物も種からぐんぐん生長して、花開き、世代を継いでいく。一見、変化のとぼしい大地だって、地球規模の視点で長期的に見れば、多様な変化をくりかえし、この惑星が生きていることを実感させる。幼い頃から魂の目をもっていたシュタイナーにしてみれば、自然を自然たらしめているものが、たえざる生命活動であることは、論証を待たずして自明のことであった。  それなのに、学校で習う自然科学は、あるいは学校だけでなく周囲の大人たちが信奉している近代自然科学的なものの考え方は、自然全体の生命から一部分を切りとって分離し、その断片をピンで留めて静止させ、そこへさらに細かなメスを入れて、あれこれと観察結果を書き記し、その書き記されたものを整理して、あたかもその整理整頓された叙述内容こそが、つい先ほどまで生きていた自然の本質であるかのように強弁する、そんないとなみにしか思えなかったのである。自然科学的なものの考え方は、生きた自然を十分に殺しきったところからしか、はじまらないのだ。  シュタイナーにとって、自然科学のいとなみは納得いかなかった。そこに見出されるのは生きた自然ではなく、死んだ自然、自然の死体だった。しかも、科学的思考の観察対象になるために、あらかじめわざわざ絞め殺された自然死体なのである。  これが当時シュタイナーが出会った、自然科学の現実であった。この現実に直面したシュタイナーの心には、次第に、やみがたい思いが育っていった。それは、思考の在り方そのものを、自然を貫いて流れる生命を直観しうるものにまで変化させるにはどうしたらいいか、という思いである。自然を生命として形成し続ける力と、魂の中で生き生きと直観される思考力とは、本質において同じ一つの力だ、という確信が彼にはあったからである。  こうしてシュタイナーは、近代自然科学の反生命的な破壊力に遭遇して、みずからの人生課題を、次のように意識したのである。すなわち、いったいどうして思考は、かくも反生命的な在り方をするようになったのか、そして、この思考をどのように育んでいけば、自然の生命を直観する在り方にまで発展させることができるのか、と。 †カントとの出会い[#「†カントとの出会い」はゴシック体]  シュタイナーが実業学校で補習授業をするようになったある日、町の書店で、偶然、一冊の本に出くわす。カント(一七二四—一八〇四年)の『純粋理性批判』である。  一五歳のシュタイナーが、カントを知っていたわけではない。ただ、人間の考える力の在り方に根本的な疑問を抱くようになっていた当時のシュタイナーにとって、理性の可能性と限界を論じたこの本は、是非とも読破しなければならないものに思えたのである。補習授業のアルバイト料を貯めて、彼はこの廉価版を購入した。  手に入れてからの苦労は並大抵ではなかった。読めないのだ! 内容の難解さもさることながら、シュタイナーには、じっくり本を読む時間がほとんどなかったのである。  学校が家から遠かったので、通学に時間がとられた。家に帰ったら帰ったで、山のような宿題がある。家の用事や、借りていた畑の世話もしなければならない。妹や弟の勉強も見てやらなければならない。翌日自分がやる補習授業の準備だって、おろそかにはできない。そんなこんなで、じっくり時間をかけて取り組まなければ理解できそうもない本をかかえたまま、シュタイナーは時間を工面できずにいたのである。  背に腹は代えられぬ。シュタイナーは、非常手段に打って出た。その頃学校には、ただ教科書を棒読みするだけの、退屈きわまる授業を行う教師がいた。歴史の教師だ。こういう手合いは、いつの時代にもかならずいる。シュタイナーは、その教師が試験に出すのは、棒読みしているその教科書からだけであることを確認する。それなら、授業を聞こうが聞くまいが、同じである。  そこで彼は、カントの本を一ページずつ切り離し、歴史の教科書に挟み込んで、授業中、教師の声など一切無視して、ひたすらカントを読みふけったのである。休暇になったらなったで、シュタイナーはいつもこの本を持ち歩き、時と場所を選ばずに読み続けた。こうして彼は、『純粋理性批判』を二〇回ほども読み込んだ。  そこまでして読み込んだこの本から、シュタイナーが学んだことは、自分の思考活動を最初から最後まで、くまなく見通す力だった。  何のことかというと、普段、私たちがものを考えているときの思考活動は、たいてい、思考以外の要素、たとえばそのときの体調とか、気分とか、状況等々によって、大なり小なり影響を受けているものである。最初は集中して考えているつもりでも、ふと気づくと、あらぬことを考えていたり、思考が妄想へと変じていたり、最初に考えようとしていたそのことが、そもそもいったい何だったのかわからなくなっていたりと、相当に悲惨である。それは、思考活動の流れを見張っておらず、どこかの路地で気分に油を売ったり、体調に気兼ねしたり、感情に竿を差されたりしているからである。  あれこれとりとめもなく考えたりすると、たちまち人は思考の根無し草状態に陥る。挙げ句の果てに、一人で勝手に落ち込んだり、反対に舞い上がったり、糸の切れた凧みたいに、心の空間を果てしなくさまよい、ふらふらと、あてどない。仕舞いにはうとうと眠り込んだりして、気づくと翌朝に不時着していたりする。  シュタイナーがカントから学んだのは、思考以外の要素からまったく自立した思考のいとなみであった。魂の明るい場所にしっかりと保持され、思考以外の要素によって惑わされることなく、自分が考えようと決めた事柄をたえず把握し、自分が考えながら歩んでいく道を、一歩一歩、明らかに照らしながら、段階を追って、確実に、発展的に高まっていく思考をこそ、シュタイナーはカントから学んだのである。 『純粋理性批判』は、思考の在り方を発展させようとしていたシュタイナーにとって、かっこうの教材であった。そこには厳密な思考の歩みが、曇りのない文体とともに、記されていたからだ。 †「物自体」は限界なのか[#「†「物自体」は限界なのか」はゴシック体]  けれども、やがてシュタイナーは、カントの思考によっては、どうしてもこれ以上は進みようがない地点に突き当たる。カントが、思考の禁域として、みずからの思考に一線を画して身を退かせたあの地点である。物自体だ。  人間の思考力が対象としてとらえることができるのは、あくまでも、感覚的知覚に与えられた事物の像だけであって、そうした知覚内容(像)を人間の感覚に与えているところの、物それ自体は、決して直接的に認識の対象にはなり得ない、と言うのである。  しかし、とシュタイナーは考える。感覚的な知覚の背後に[#「背後に」に傍点]、「物自体」を想定している[#「想定している」に傍点]のは、カントの思考ではないのか。決して人間の認識の対象にはなり得ない、とカントが言うその物自体を、まさにそのようなものとして考え出しているのは、カントの思考である。言うなれば、思考が、みずからに足枷をはめようとして考え出したのが、物自体の概念なのであり、物自体という物自体[#「という物自体」に傍点]が、人間の思考の外に現実に存在するわけではない。  まさに、ここにこそ、思考の突破すべき自己幻想がある。それなのにカントは、自分で作り出した幻想の中に思考を引き籠もらせてしまうのだ。  カントにしたがえば、人間は、この感覚的知覚の及ぶ範囲内でしか、思考を働かせることができない。思考はただ、物質の世界に現れる諸現象を、あれこれと観察し、叙述することにのみ費やされる。そして、感覚的知覚によっては把握されない世界——シュタイナーが魂の中で日々実感しているリアルな世界——に対して、思考はその翼をみずから畳み込んでしまう。挙げ句、魂の世界に対しては、次の二つの態度のうちどちらかしかとれなくなるのだ。すなわち、無神論者や唯物論者がそうするように、そんな世界は虚妄にすぎない、と全否定するか、もしくは信心深い者たちがそうするように、教会のドグマにしたがって、信仰の対象として崇めてしまうかである。  カントの物自体は、ちょうどそこですべての思考が跳ね返されて、感覚的な物質の世界へと押し戻されてしまうような障害物として、人間の思考力の前に立ちはだかっている。けれども、この障害物が、カントの観念の産物にすぎないことは、シュタイナーにとって明らかだった。カントは、そこからさらに一歩、思考を発展させるべき地点で、みずからの思考に回れ右を命じ、後ろ向きになって物質世界だけを見るように仕向けられた思考に、背《せな》で、唐獅子牡丹ならぬ物自体の夢を、泣き泣き見せただけなのだ。  物自体など、存在しないのである。感覚がとらえる事物の背後には[#「背後には」に傍点]、何もない。だいいち、感覚的事物の背後[#「背後」に傍点]、というこの場の想定の仕方すら、感覚的な空間把握に縛られた思考の夢見る、金縛りの比喩にすぎない。  感覚が捉える事物には、背後も何もない。事物それ自体が生命の場である。ただ人間の思考には、事物を形成している生命に直接入っていく力がない。力がないので、生命の生《なま》ないとなみを、感覚を通していったん意識のスクリーンに映し出し、そこに像を見ることによって、かろうじて事物の認識を得ようするのである。  だから問題は感覚的知覚にあるのではない。ましてや対象の側や、その背後とやらの物自体なんかにあるのでもない。問題は常に、生命をダイレクトに直観できない思考にある。  ここにシュタイナーは、カント後の課題があると考えた。それは、事物を形成する生命そのものへと思考を観入させるための基盤を、どこに見出したらいいのか、という課題である。思考をどのような基盤の上に据えれば、感覚的知覚が与える像を超えて、物自体などという幻影に落ち込むことなく、事物を存在せしめている生命のただ中へと踏み込んでいくことができるか、それが問題となったのである。  思考が明晰なまま、失神することなく、感覚を超えた領域へと立ちのぼっていくためには、感覚的知覚の世界に存在しながら、同時に、それ自身は感覚を超えた存在でもあるものの基盤の上に、その思考活動が据えられなければならない。シュタイナーにとって、そのような基盤たり得るものとは、自我以外にあり得ないと思われた。 †フィヒテの自我論[#「†フィヒテの自我論」はゴシック体]  ウィーン工科大学に入ったシュタイナーは頻繁に本屋めぐりをした。書棚で片っ端から哲学書を手にとっては、これはと思うものを読んでいった。そこで彼は、自我の哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(一七六二—一八一四年)と出会ったのである。  すでに自分なりの思索を通して、思考活動を感覚を超えた世界にまで飛躍させるためには、自我に立脚するしかない、という確信がシュタイナーにはあったが、その確証を得るためには、自我というものを可能な限り厳密な思考によって解明しなければならない。この課題をシュタイナーは、フィヒテの主著である『全知識学の基礎』(以下『知識学』と略)の研究によって果たそうとする。  カントの『純粋理性批判』を読んだとき以上に、シュタイナーの読書法は徹底していた。彼は『知識学』の一ページ一ページを読み解きながら、それを自分なりの表現に書き改めていったのである。フィヒテの言葉を、自分の言葉に翻訳していくのだ。そしてついには、『知識学』全文を書き改めた長文の草稿を作成するにいたった。では、『知識学』にそってシュタイナーが考えたことを、駆け足でたどってみよう。  普通、認識の対象である世界は、私にとってあらかじめ与えられている。世界を創造したのは、私ではない。だから世界は最初、謎に満ちている。私は観察と思考を通して、苦労しながら、少しずつ世界を解明していかなければならない。  では、この世界に、私が自分で無から創造し、その創造の瞬間に立ち会っているものがあるだろうか。もしもそのようなものが存在するなら、少なくとも、それについてだけは完全に見通すことができるはずだ。  世界を認識しようとする人間が、何をおいてもまず第一にはじめるのは、「私は考える」という行為である。「私は考える」という精神活動の一等最初は、「私は」と言って、私が自分を立ち上げることだ。何について、どう考えるにしろ、人間はまず「私は」という一点に、世界認識の基盤を置いているのである。  よく観察してみると、私の意識の中に、この「私は」という言葉が響く以前には、私にとって「私」はない。ところが、私が「私は」と言う瞬間に、この「私」は、私の意識の中心に立ち上がる。まるで、無から突然創造されたようにして立ち上がる。しかも、この「私」を立ち上げるのは、みずから「私は」というところのこの私である。この意味において、「私」という一点について言うなら、創造されるものと、創造するものとが、同一である。創造行為という働きと、創造行為によって作り出されるものとが、同じなのだ。  そのような在り方をしているものは、この「私」以外には、神しか存在しない。世界を見渡しても、みずからを創造するものは、この「私」と神だけである。こう考えることでフィヒテは、人間の自我と神とが、本質において同質である、と考え抜いたのである。  シュタイナーはフィヒテのこの思想を、自分の言葉に置き換える作業を通して、自我の思想を血肉化していった。なるほど、自我が、他の何ものにも依拠せずに、自己に目覚める振る舞いを通してみずからを創造し、みずからを世に現すものなら、それこそ、物質の世界に存在しながら、同時に、神と本質を同じくする、感覚を超えた存在だと言うことができる。こうしてシュタイナーは、フィヒテの自我の哲学を通して、すべての認識の基盤に自我を据えることに、確証を得たのである。 †導師との出会い[#「†導師との出会い」はゴシック体]  大学に通いながらフィヒテ研究に没頭していた頃、シュタイナーは一人の人物と出会う。その人は、ウィーン近郊の工場で働く労働者で、工場が休みのときには森で薬草を採取し、市内の薬屋に売り歩いている初老の男だった。名前をフェリックス・コグツキーという。シュタイナーの両親と同じ世代の人だった。ただし、シュタイナーはこの人物については、「薬売りのフェリックス」としか語らなかった。  フェリックスとの出会いは、偶然、汽車の中で生じた。フェリックスの方からシュタイナーに話しかけてきたのである。彼は最初、ごく素朴な男に見えた。ところが彼の話す内容はというと、錬金術、グノーシス思想、カバラ学、薔薇十字会など、非常に広範な、いわゆるオカルト的知識ばかりであった。  しかも彼はそうした事柄を、単なる知識として知っていたのではなく、生々しい体験を通して理解していた。家に招かれると、そこにはヨーロッパの伝統的なオカルティズムの文献がうずたかく積まれていたけれども、彼がこうした文献を手に取るのは、自分がすでに体験している事柄を、書物の中で確認するためだけだった。  フェリックスと出会うまで、シュタイナーは、自分が幼い頃からもっていた特別な魂の力について、誰とも共感をもって語り合うことができなかった。一〇歳のときに幾何学に目覚めて以来、彼は一人で孤独に、数学や自然科学、哲学の独学を通して、自分が魂の目でとらえているものを、他者にもわかってもらえるよう、できるだけ正確に表現する方法を求めてきた。魂で見ている世界と、外なる物質世界との間に、橋を架けたかったからだ。その橋は同時に、シュタイナーと周囲の人々との間に架けられる橋でもあった。  そこにフェリックスが現れた。シュタイナーは生まれてはじめて、自分がこれまでずっと体験し続けてきた魂の内部の現実について、心から語り合える友人を得ることができたのである。いささか、年の離れた友人ではあったが。  さらに興味深かったのは、シュタイナーがこれまで、数学的あるいは哲学的な思索を通して、明晰な思考内容として表そうと努めてきた魂の世界のことを、フェリックスが、サラマンダー(火の精)、ジルフィーデ(風の精)、ウンディーネ(水の精)、グノーム(土の精)といった、四大精霊を表す伝統的な物語の言葉を用いたりして、イメージ豊かに話してくれたことだった。  それまでシュタイナーがやってきた努力は、思考の鋭さはあっても、誰とも共有されない孤独感につつまれていた。それを、フェリックスの側から、生き生きとした自然の息吹きと、物語世界の情感でもって、あたたかく励ましてくれたのである。  しかし、フェリックスがシュタイナーに対して果たした最大の役割は、別なところにあった。彼は、シュタイナーの真の導師となるべき人物から送られてきたメッセンジャーだったのだ。  フェリックスがシュタイナーに引き合わせた真の導師について、シュタイナーは一切語ろうとしなかった。その人物について、名前はもちろん、職業も、住まいも明かさなかった。個人的なことに関しては元来|寡黙《かもく》なシュタイナーだったが、この人物に関しては、生涯秘密を守り通した。この人物自身が、世にまったく隠れて生きることを使命の一つとしていたからだ。  この人物が誰であったかについて、シュタイナー亡き後、探究熱心な弟子たちは、あれこれ調査した。いくつかの説を知ってはいるが、残念ながら私は、そういったことに興味が湧かない。私の関心は、この人物がシュタイナーに示した人生の指針である。それについてなら、シュタイナーも語っているからだ。導師が与えた指針は、次の通りである。  今はまだすべての霊的な観点を、哲学的な概念の覆いの中で表現するように。また、現代の支配的な思潮である唯物論に対して、完全に意識的な態度で臨むことができるよう、自然科学の本質を徹底して学ぶように。そして、あなたが四〇歳になるまでは、霊的な立場での指導を直接引き受けてはならない。——以上が、導師の教えだった。以降、シュタイナーは、この指針を忠実に守っていく。  この導師はシュタイナーに、フィヒテについて個人講義を行ったという。その内容に関しても、シュタイナーは沈黙を守っているが、後年、このときの講義が一つの種となって、そこから湧き出た思索の結果が、彼の代表作の一つである『神秘学概論』に凝縮された、と述べている。 †考えるのは脳なのか? NOだ![#「†考えるのは脳なのか? NOだ!」はゴシック体]  唯物論と格闘するシュタイナーを知る上で、興味深いエピソードを一つ添えておこう。学生時代、一年下に化学を専攻する友人がいた。その友人は、心の奥底ではそうでないのに、頭は唯物論に支配されていた。シュタイナーと彼とは、かっこうの論争相手となった。大学から帰る道すがら、激論は留まるところを知らなかった。  友人はウィーンの駅から汽車で家に帰るのだが、ある日、思考するのは脳組織かどうかをめぐって議論が沸騰した。汽車は今にもホームを出ようとしていた。そこでシュタイナーは、一気呵成に、次のような言葉でもって友人に訴えかけたという。 [#2字下げ] それじゃあ君は次のように主張するんだね。君が「私は考える」という場合、それはただ、君の大脳神経組織中で生起する出来事の、必然的な結果にすぎず、大脳中のこうした出来事だけが現実であり、そして君が、「私はこれこれの物を見る、私は歩く」という場合も同じことだ、と。しかし、いいかい。君は、「私の大脳が思考する、私の大脳がこれこれの物を見る、私の大脳が歩く」とは言っていないんだ。もし君が、本当に君の主張していることが正しいと確信しているなら、君は君の言い方を訂正しなければならないはずだ。にもかかわらず、君は、「私が」と言っているんだから、君は本当は嘘をついていることになる。しかしこれは、君が君の理論的帰結に逆らってでも、君の健全な本能に従わざるをえないということなんだ。君の意識が、君の理論の虚偽を罰しているんだ。 [#地付き]——『シュタイナー自伝』 [#ここで字下げ終わり]  いやはや、理屈っぽい! 一読、私なんかは、こんな友人だけはもちたくないな、と思ってしまう。学生時代のシュタイナーは、というか、そもそもシュタイナーの基本的な気質は、一度決めたら梃子でも動かない、頑固な胆汁質だったのではないかと、私は踏んでいる。  剣道で言うなら、「突き!」の一本槍だ。相手がとうに逃げ出しても、いったん走り出した論理の一貫性をひたすら行く。思考のガソリンを自我にぶっかけて、論理の竹刀を突進させ、向こう正面の壁でもとことんぶち抜く。そんなタイプの青年だったのではなかろうか。もちろん、相手が信頼できる友人だったからこそ、ここまで打ち込めたのだろうけれども。  いずれにしても、思考も含めて、人間の行為の主体は物質である、と考える唯物論者(今風に言うなら唯脳論者)と、行為の主体は物質ではなく自我だ、と訴える唯我論者とのやりとりは、汽車の線路のように、どこまでいっても平行線だったろう。  しかし、シュタイナーをしてここまで突進させたのは、彼の内部で、すでに揺るぎないものとなっていた自我への確信なのである。知られざる導師の導きとフィヒテの研鑚を通して培われた、自我の実在性と、感覚を超えたその本質に対する確信は、彼の内部で不動のものとなっていった。そこにこそ一切の認識の基盤があり、そこにこそ物質の世界と感覚を超えた世界とをつなぐ拠り所がある。この観点はその後、人智学思想の根幹神経となっていく。 †ゲーテ自然観の研究[#「†ゲーテ自然観の研究」はゴシック体]  フィヒテ研究と同時に、導師がシュタイナーに示唆した課題がもう一つあった。ゲーテ(一七四九—一八三二年)である。  先にも述べた通り、シュタイナーにとって当時の自然科学は、観察対象を自分の外に置き、自然全体の生命から切り離して、その死体を切り刻むようにして分析するところに成り立つ学であった。そこで用いられている思考の在り方は、シュタイナーにとって容認しがたいものだった。彼にとって思考とは、生命を担った自我のもっとも本質的な振る舞いだったからだ。自然科学的な思考は生命化されなければならない、という思いが、シュタイナーの中でふくらんでいった。そこへ、ゲーテ自然観の研究が、新たな課題として示されたのである。  学生時代からはじまったゲーテ研究は、シュタイナーの主要な仕事となる。二一歳のとき(一八八二年)、シュタイナーは、ヨゼフ・キルシュナーの企画した『ドイツ国民文学叢書』で、ゲーテの自然科学論文集の編纂と序文の執筆を依頼される。二九歳からはワイマールへ移って「ゲーテ・シラー文庫」に勤務し、すぐれた学者たちにまじって研究に没頭した。そしてシュタイナーは、ゲーテの自然観から生命ある存在にふさわしい思考の在り方を学んだのである。  生命の中に入っていく思考は、たとえば植物を例にとれば、次のような在り方をする。  植物の種はしかるべき環境下で双葉を発芽する。発芽させる力は種に備わっている。双葉はやがて茎を伸ばし、いくつもの葉を広げ、生長する。蕾をふくらませ、花を開き、ふたたび同じ生命をひめた種を宿す。この生長過程は、一連の形態を次々と内部から生み出していく生命の連続的な変容としてとらえることができる。  生命が物質の世界において、一連の形態を内部から生長させていくように、その同じ生命が、人間の思考の世界において、物質として変容する植物の形態に対応して、同じ一連のイメージを、言葉の中から生長させていくことができないだろうか、と考えるのである。  種から双葉が発芽するように、人間の魂の空間に種についてのイメージを植え、そのイメージを感情豊かにふくらませるところから、双葉のイメージを発芽させるのである。そしてその双葉のイメージを原型として、そこから無数のヴァリエーションをもった葉が生み出されていくように、連続的な葉のイメージを魂の内部に立ち上げ、その生長するイメージの力がさらに凝縮されて蕾となるように、感情の光と水を注ぎ込むのである。  ゲーテが形象的理念という言葉で表そうとしたものを、シュタイナーは、自然に存在する生命形態と厳密な対応関係をもった思考の瞑想法としてとらえたのである。  ゲーテ的理念は、どんなに深く自然の中に入っていっても、生命を傷つけることがなかった。それどころか、彼の理念をもって自然をとらえようとすればするほど、外界に存在する生きた自然と、自分の内部に形象として現れる自然との間に、相乗的に高まりながら交流する生命力を感じたのである。  ゲーテの形象的理念は、魂の世界と物質の世界との架け橋となった。なぜならそれは、同じ生命が、外では物質の花となり、内ではそれに対応する言葉の花を生み出すことを教えてくれたからである。 †ニヒリズムとの対峙[#「†ニヒリズムとの対峙」はゴシック体]  ゲーテ研究のかたわら、シュタイナーはウィーンのサロンに出入りするようになった。サロンとは、当時ヨーロッパで流行した文化的、思想的な集まりの場である。サロンはさまざまであったが、一定の思想的傾向をもつ人物を中心に、その信奉者や友人たちが、喫茶店とかバー、個人の家に集まって、仲間の最新作——詩とか小説、論文など——や、そのときどきの話題の作品、社会・政治問題等々をめぐって、さかんに議論をした。  シュタイナーも学生時代から、そうしたサロンのいくつかに顔を出すようになった。二十代後半で、特に大きな刺激を受けたのが、シュタイナーより三つ年下の若き天才文芸家——と当時は呼ばれた——マリー・オイゲーニェ・デレ・グラツィエのサロンだった。  このサロンの思想的傾向は、デレ・グラツィエの作品によく現れていた。シュタイナーがはじめてこのサロンを訪れたとき、彼女は大作『ロベスピエール』に取りかかっていた。彼女は自作の構想をサロンで語った。そこにシュタイナーが見出したのは、深い厭世《えんせい》主義、真っ暗なニヒリズムであった。  デレ・グラツィエが描き出そうとするのは、あらゆる理想主義の悲劇的宿命である。どんな理想も、運命の力によってたえず壊滅させられるのであり、人間にできることは、必然的な運命の悲劇から眼をそらさず、ただそれを赤裸に描きあげることだけだ——、というデレ・グラツィエの立場は、シュタイナーにとっては、唯物論と同様、克服されるべき世界観と思えた。なぜなら、もしもそうだとしたら、人間にはどんな自由も存在しないことになるからだ。  そして、この自由の問題は、ゲーテ的自然観によっては十分に解明することのできない問題として、新たにシュタイナーの前に立ち上がってきたのである。  なるほど、ゲーテ的な眼差しを育てていけば、自然の中に生きて働く生命の力を、自分の魂の内部で実感することができる。それは、自然科学的な思考によっては決して把握されない、生命に対する直観認識たりうる。しかしである。  生命は必然的な法則を有している。生長と死である。ここには、自由な意志の介入する余地がない。もしも人間が、結局のところそのような生命存在の一種でしかなく、人間の振る舞いが、生命の法則にしたがって行われたり、行われなかったりするものでしかないのなら、自由はどこにも存在しないことになる  デレ・グラツィエの描き出す悲劇は、そのことを痛切に謳《うた》っていた。そこでは、自由な意志に賭けて生きようとする人間が、運命によって必ず報いを受けるのだ。理想が高ければ高いほど、失墜は容赦ないものとなる。デレ・グラツィエは、人間を襲う運命の中に、神に敵対する存在すら見ようとしていた。善に対する悪の勝利が、まったく不可避のこととして物語られていたのである。  シュタイナーは、デレ・グラツィエの徹底したニヒリズムの中に、単なる情緒的な悲観主義ではすまされない、深刻な時代の徴《しるし》を見た。だから彼は、デレ・グラツィエのサロンに熱心に通い、彼女の作品を読み、その語るところに真剣に耳を傾けようと努力した。彼女の底なしのニヒリズムを、自分の内部に取り入れて、それを内側から克服しようとしたのである。  彼女の語る、善に対する悪の勝利は、人間にとっては避けがたい現実の一つであり、人生における不可解な深淵であることを、シュタイナーは理解した。彼女はその現実を正しく見すえていた。彼女の眼差しと比べれば、人間に襲いかかる力から眼をそらそうとする楽天主義や、絵空事のような理想を讃美するだけの無力なヒューマニズムは、まったく浅はかなものに思えるほどだった。 †闘う理想主義[#「†闘う理想主義」はゴシック体]  しかし、シュタイナーは、デレ・グラツィエを理解すればするほど、まさにそのようなニヒリズムの支配する時代だからこそ、真に必要とされる理想が、胸の内に痛感されてならないのだった。そしてある日、やむにやまれぬ思いが、シュタイナーに筆をとらせた。 「自然とわれわれの理想」と題されたエッセイを、シュタイナーはサロンで配った。そこには、一九世紀のニヒリズムの深淵にめまいしながらも、自由を求めて闘おうとするシュタイナーの燃えるような理想主義が語られている。その一節を紹介しておこう。 [#ここから2字下げ]  美しいバラは無常な風に吹き散らされたとしても、その存在の意味を全うしたことになる。なぜなら数百人の人間の目を喜ばせてきたのだから。たとえ星空が破壊されてしまうような事態に立ち至ったとしても、何千年もの間人々は畏敬の念をこめて、その星空を見上げてきたのだ。それで十分である。無常であるか否か、ということが問題なのではなく、存在するものの内的な本質がその存在を意味づけていることが問題なのだ。われわれの精神の理想はそれ自身が一つの世界なのであり、それ自体でその存在を全うすることができるようなあり方をしているのだ。だから外なる自然の恵みがあるかないか、ということによって、その存在の意味が左右されたりはしない。  もし人間が自分の理想世界の内部に充足を見出すことができず、自分の理想の世界のために自然の手助けが必要だとしたら、なんとその人間は憐れむべき存在であろうか。まるで自然に手を引かれていなければ独り歩きができないようなものである。そうだとしたら、いったいどこにわれわれの神聖なる自由があるというのだ。われわれのつくるものを自然が日々、破壊してしまったとしても、いっこうに構いはしない。われわれは新たに創造する喜びをもつことができるであろう。   ——「自然とわれわれの理想」(高橋巖著『若きシュタイナーとその時代』所収) [#ここで字下げ終わり]  ここで「自然」と呼ばれているのは、運命として人間に襲いかかる避けがたい力のことである。「神」と呼ぶ人もいるだろうし、あるいは「悪」と言っていいかもしれない。  これを読んでどのような印象をもたれたであろうか。これは空疎な理想論だろうか。まだ人生の現実にブチあたっていない、血気にはやる若者の強がりにすぎないのだろうか。それとも、考え得るかぎり最悪の打撃をこうむって、もう二度と立ち上がれないと観念した人間を、なお奮い立たせることのできる意志への呼びかけだろうか。  三〇歳に満たないシュタイナーが言ったのだ。理想は実現されることによってはじめて意味をもつのではない。たとえそれがどんなひどい形で破壊されようとも、それでもなお、その理想を胸に抱いて生きようとした人間がいたという、ただそのことだけで、砕かれた理想にも、砕かれた魂にも、ありあまるほどの存在価値があったのだ、と。  理想を実現することに、人間の自由がかかっているのではない。たとえ目の前でその理想を粉々にされても、そこから次なる理想の糧《かて》を汲み取ろうとするこの意志にこそ、人間の自由がかかっているのである。  シュタイナーは、この小さなエッセイにかけた思いのすべてをこめて、『自由の哲学』を著す。『自由の哲学』は、認識を探究してきた彼の前半生の集大成であると同時に、シュタイナー思想の出発点であり、人智学の根本基盤である。そこには、一九世紀を色濃く覆った機械的唯物論とニヒリズムの思想的必然性を深く理解しつつ、これと徹底的に対決したシュタイナーの、二十代から三十代にかけての格闘が刻み込まれている。  しかしながら、このときのシュタイナーだっておそらく、その後の人生の中で繰り返し彼を襲うこととなる運命の打撃を、意識していたわけではなかろう。あのエッセイで理想を謳いあげようとして述べた言葉、すなわち——たとえ運命がわれわれのつくるものを日々破壊したとしても——というこの言葉は、まるでその後の彼の人生に対する「自己予言」であったかのように、現実のものとなっていくのである。 [#改ページ]   第三章[#「第三章」はゴシック体]   それは「オカルト」なのか?[#「それは「オカルト」なのか?」はゴシック体]   西洋と東洋の霊性史[#「西洋と東洋の霊性史」はゴシック体] [#改ページ] †「オカルト」は封印すべきか[#「†「オカルト」は封印すべきか」はゴシック体]  さて、ここで私は、シュタイナーの後半生に入る前に、是非とも述べておかねばならないことがある。シュタイナーは四〇歳以降、オカルティストとして自己を社会に顕《あらわ》す。ところが、現在ここ日本で「オカルト」と言えば、UFOや超能力、超常現象といった、はっきり言って、いかがわしいもの[#「いかがわしいもの」に傍点]全般を漠然と指す名称か、あるいは「オカルト・ホラー」と呼ばれる特定の映画や小説、ゲームのジャンル名といったイメージしか一般的ではない。  それゆえ、現在その日本で、シュタイナーをオカルティストだと言い、その思想をオカルティズムだと言い切ってしまうと、とまどいを感じる人もいるだろう。シュタイナーを受容しようとするとき、まずオカルトというものをどうとらえるかが問題となる。根っからそういうものが好きな方は別として、おそらくここが、本気でシュタイナーの本を読んでみようかと思う者にとって、最初の分岐点となるはずである。  この問題は訳語にも通じる。たとえば、シュタイナーの言う Geisteswissenschaft というドイツ語を、「霊学」と訳すか、「精神科学」と訳すかでは、単なる言葉のイメージのちがいを越えて、思想のとらえ方の本質的な差異が現れる。  とりわけ日本では、シュタイナーの広範な思想と活動の中でも、教育思想とその実践の場であるヴァルドルフ学校とが、一般に広く知られるようになった。大学の教育学部で、いわゆる「シュタイナー教育」をテーマとする論文は、七〇年代後半から散見されるようになり、今日では卒論テーマの常連の一つであるのみか、すでに実践的な試みが日本各地でスタートしつつある。  そうした中で、日本の教育現場にヴァルドルフ教育を本格的に導入するためには、シュタイナーのオカルト的側面を積極的に打ち出すのは得策でない、と考える人々も出てきた。教育の分野で、世間一般の人々から受け容れてもらうだけでなく、公的機関からの認可をも引き出すためには、オーラが見えるとか蓮華《チヤクラ》が開くと言った話はもちろんのこと、死後の生活や輪廻転生、ほとんど荒唐無稽《こうとうむけい》な宇宙進化の物語など、言わぬが花だということなのだろう。とにかく、そんなことよりも、彼のすぐれた教育思想と実践的方法論とを、日本の教育現場に少しでも早く導入することを通して、現実的な成果を積み重ねていく方が大切だ、という判断あってのことだろう。  今、私がこう述べたのは、何もそうした実践的取り組みを批判しようと思ってのことではない。シュタイナーをどのように紹介し、何をどう実践していくかは、一人ひとりが自分で決めればいいことである。シュタイナーのオカルト的側面を封印し、眼前の現実のために自分が必要だと判断した理念だけを実践していくことは、多様なシュタイナー理解の一つと言えるかもしれない。  また、シュタイナーから直接、教育思想を学び、最初に実践していった人々は、「シュタイナー教育」とか「シュタイナー学校」といった名称を用いなかった。個人の名前と結びついた特定の世界観を子どもたちに吹き込むために、その思想が語られたのではないことを、彼・彼女らが十分わきまえていたからである。シュタイナーの教育思想上もっとも重要な講義が、『教育の基礎としての一般人間学[#「一般人間学」に傍点]』(傍点筆者)と名づけられたのもそのためだし、最初にできた学校の名前である「ヴァルドルフ」をもって一般的呼称にしたのも、そのためである。  だから、子どもたちに向けて、シュタイナーのオカルト的ヴィジョンを語る必要はまったくない。個々の子どもたちは、人間として成長できる環境の中で、他の誰でもなく、まさにかけがえのない自分自身になることが大切なのであって、人智学のスペシャリストとなって世に出ることが、ヴァルドルフ教育の目的ではない。 †意識を覆う群雲[#「†意識を覆う群雲」はゴシック体]  しかしながら、子どもに向けてではなく、自分自身に向けて、ヴァルドルフ教育の思想的バックボーンを学ぼうとするなら、話は別である。教育だけではない。シュタイナーの著作に取り組み、思想そのものを深めようとする者なら誰であれ、そのオカルト的側面を避けて通ることはできない。なぜなら、シュタイナーにおけるオカルティズムは、彼の思想の一側面[#「一側面」に傍点]などではなく、真正面[#「真正面」に傍点]であり、ど真ん中[#「ど真ん中」に傍点]であるからだ。  したがって、シュタイナーを学ぼうとするなら、オカルト一般に対する通俗的なイメージを乗り越えて、オカルトという言葉そのものを、自分の中で、新しくイメージし直していくことがどうしても不可欠となる。  だからといって、もともとオカルト的なものに興味旺盛で、知識も豊富、ついでに並々ならぬ修行や実体験まで積んでいるという人が、それならシュタイナーを容易に理解するかというと、そうは問屋が卸さない。ここがおもしろいところだ。  オカルト的なものに対する自分なりの理解と経験をもっていること、そのことはいい。しかし、その理解の仕方や経験を、そのまま別な人間のとらえているオカルト的なものにまで無自覚に適用するとき、その人は、理解すべき対象そのものを見失い、自分の観点の追認に終始することとなる。  先にも述べた通り、シュタイナーは、現実そのものから理念を汲み出すべきだ、と言った。その意味で、シュタイナーに取り組むときは、自分なりのオカルト理解の仕方をいったん仮置きして、シュタイナーが語る文脈の中でオカルティズムがどう性格づけられているかを、ゼロから追体験していくことが必要である。自分なりの理解の仕方を捨てろというのではなく、それをさらに豊かなものにするためにも、自分の見方にとらわれない見方を、対象そのものの中から紡ぎだすことが大切なのだ。  その意味で言えば、オカルト的なものに抵抗を感じる人の方が、あらかじめ定見をもってしまっている人よりも、シュタイナー理解の素地としてはむしろ恵まれていると言えるかも知れない。  さて、シュタイナーにおけるオカルティズムを理解することは、もうひとつ、彼の思想の天王山に接近する素地となる。何かというと、キリスト論である。オカルティズムがシュタイナー思想のど真ん中に位置するとするなら、その心柱にあたるのがキリスト論である。  ところが、このキリスト論がまた、私たちが一般に知っている、あるいは人によっては信じているところの、あの歴史上のイエス・キリストやキリスト教と深い結びつきをもちながらも、きわめて特異な内容を含んでいるがゆえに、彼のオカルティズムと同等かそれ以上に、安易な理解を寄せつけない。  つまり、私たちとシュタイナーとの間には、「オカルト」と「キリスト」という、二つの躓《つまず》きの石が置かれているのである。  私は本著において、この二つの石の中へ、可能な限り直截に、入っていこうと思う。けれども、この二つの石に入るためには、まずこの石が、シュタイナーの手によってそもそもどこに置かれたか[#「どこに置かれたか」に傍点]を見出さなければならない。シュタイナーがその思想を語り、新しいオカルティズムとキリスト理解をもたらそうとしたのが、どこにおいてなのか[#「どこにおいてなのか」に傍点]を知らなければならない。シュタイナーの立っている場所に、いったん自分を立たせてみる必要があるのである。  この作業がどうしても必要だと、私は考える。なぜならば、シュタイナーにおけるオカルトとキリストとを理解困難なものにしている原因は、もっぱらシュタイナーの側[#「シュタイナーの側」に傍点]にあるのではなく、私たちの側[#「私たちの側」に傍点]にあるからだ。私たちが今立っている場に、群雲《むらくも》がかかっているのである。  この群雲は二重《ふたえ》である。第一の雲は、私たちの——とはこの場合、現代の日本で生きている者という意味だが——西洋キリスト教社会に対する基本認識にかかっている雲であり、第二の雲は、私たちの足元にある、あるいはあったはずの、東アジアの霊性に対する基本認識にかかっている雲である。  以下、順を追って、この二つの群雲をなぎ払っておきたい。この雲を吹き払うことができるなら、そこからまっすぐに、シュタイナー思想の核心を見晴るかすことができると思うからである。 †九世紀の教会会議[#「†九世紀の教会会議」はゴシック体]  そもそも「オカルト」とは、語源で言えば、「視界から覆い隠して見えなくする」という意味のラテン語 occulere の過去分詞である occultus に由来する。つまり、「隠された、見えなくされた」もの、という意味である。となれば、いったい誰が[#「誰が」に傍点]、何を[#「何を」に傍点]、誰に対して[#「誰に対して」に傍点]、覆い隠したか[#「覆い隠したか」に傍点]が問題となり、それはすなわち、シュタイナーが何を[#「何を」に傍点]、誰に対して[#「誰に対して」に傍点]、開示しようとしたか[#「開示しようとしたか」に傍点]と問うことに通じる。  シュタイナーが、いくつもの講演の中で、繰り返し言及した教会会議がある。西暦八六九年から翌年にかけて、コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)で開催された教会会議である。  普通、教会史の中でこの公会議は、最終的には東方教会(ビザンティン帝国)と西方のローマ教会とが分裂するにいたる教義論争の流れの中に位置づけられているが、シュタイナーがこの会議を繰り返し取り上げたのは、会議における三位一体論をめぐる聖霊論争の中で、個々の人間と霊的なものとの直接的な結びつきが否定され、人間はただ、使徒の系譜に立つ教会を通して聖霊を受けるときにのみ霊的なものと結びつく、という教義が確立されてしまったからであった。  それによって人間は、肉体と、個人的な内面生活の場である魂との、二つの要素から成る存在とされたのである。肉体は動物的本能と感覚とに支配されており、魂は悪魔の誘惑に弱い。これだけでは救済はかなわない。肉体と魂という二元的要素からなる人間は、霊がそこから恩寵《おんちよう》として下される教会組織に属してはじめて、永遠なる神との契約に入る、とされたのである。裏を返せば、教会の外では、霊的なものとの直接的な結びつきなど生じるはずがない。もし、そのようなことが可能であると主張する者がいたならば、それは悪魔のささやきにほかならず、悪しき異端である、ということになるのだ。  このドグマは、早くもキリスト教に対する迫害期に派生し、四世紀のコンスタンティヌス帝による公認、そしてローマ帝国の国教へという一連の出来事を通して、不動の地位を獲得していった。それを、神の勝利の歴史と呼び、神の栄光の顕現と呼ぶのは、しかし、ローマ化された正統キリスト教会のドグマである。  キリスト教会の歴史は、異教と異端に対する徹底した論争の歴史でもある。異教とは、イエス出現以前の伝統的諸宗教のことであり、異端とは、イエス・キリストをめぐる言説の中で、正統でない、と正統派が決めた一切のものである。教会教義や神学大系は、何世紀にも及ぶ熾烈《しれつ》な論争の中で構築された。自他の可能な限りの峻別こそ、正統教会の論理であった。  ことにローマの政治権力と教会とが結びついた四世紀以降、その論争形態は、口頭・文書・会議の範疇《はんちゆう》を越えて、軍事警察力も含めた実力行使をともなう、非寛容的かつ徹底したものになっていった。  四世紀の最初の公会議で勝利をおさめた正統派の司教アタナシオス(二九六頃—三七三年)は、三六七年に出した書簡を通じて、イエスと使徒の言行録のうちどれが正統であるかを明示し、これに属さない一切の文書の破棄を厳命している。これが、現行の新約聖書におさめられている二七篇の文書の確定である。 †『ナグ・ハマディ文書』の発見[#「†『ナグ・ハマディ文書』の発見」はゴシック体]  さて、それから千数百年経った、一九四五年一二月のある日、エジプトのナイル川上流の町ナグ・ハマディで、一人の農夫が、さる洞窟の内部に古いパピルス文書を発見した。全部で五二篇に及ぶこれらの文書は、いずれも三世紀後半から四世紀中頃にかけて筆写された、イエスに関する非正統的伝承を含む古写本群であった。正統を自称する者たちによる異端狩りをまぬがれた文書が、偶然、日の目を見たのである。  発見された地名をとって『ナグ・ハマディ文書』と呼ばれるこの古写本は、現在、岩波書店から四分冊で出ている。グノーシス派と呼ばれる、初期キリスト教における最大の異端の思想を、これほどまとまった形で日本語で読めるのは、一九六〇年代以来の、荒井献氏をはじめとするグノーシス研究家のおかげであるが、四冊のうちどれでもよい、手にとって読んでみられるとよいと思う。そこに描き出された初期キリスト教のなんと豊饒な姿!  たとえば、マグダラのマリアの名による福音書では、十二使徒の筆頭であるペトロよりも高位の霊的権威が、マリアに捧げられている。別の文書では、マグダラのマリアがイエスの「同伴者」とされ、神的合一は、男にして女なる存在、すなわち男女《おめ》となることだと暗示される。これなど、ほとんどタントラ・キリスト教を思わせる。そうかと思うと、地上的な、男ばかりの十二使徒に対して、霊的な、女ばかりの七人弟子のことが語られ、どうやらその七人の女弟子が、無知から聖なる智慧に目覚める際の、内的なプロセスの象徴として語られていることが読みとれる。  今紹介したのは、『ナグ・ハマディ文書』のほんの一部分である。これだけでも、正統キリスト教会にとってどれほど危険な思想であったか、ご想像いただけようかと思う。正統キリスト教会は、徹底してパパ(父=司祭)の宗教であり、女性は自然に近い存在として卑しめられた。女性の存在価値は、かろうじて聖母マリア信仰の中に封じ込められただけであり、それすら教会はしぶしぶだったのである。  女性的要素に対する高い評価は、『ナグ・ハマディ文書』の一部をなすにすぎない。正統教会にとってもっと危険な要素は、ほかにいくらでも見出すことができる。たとえば、十字架にかけられたイエスが、人の子としての苦しみを味わっている、などというのは、霊的な本質が見えない哀れな者の虚言にすぎないとか、そのイエスが肉体をともなって復活したと信じるのは唯物論の証拠であるとかがそれである。さらには、イエスという名称も、キリストという言葉も一切用いることなく、そうした限定的名辞を超えたところに、魂の浄化と光との合一を説く文書もある。  ナイル川上流の一信仰共同体が保持していたわずか五二篇の写本群ですら、これほど豊饒なのである。下流に位置した、当時の一大交易都市アレクサンドリアはどうであったろう。そこには、世界有数の巨大図書館があった。古代エジプト伝来の神殿宗教と新来のキリスト教とがしのぎを削る中で、異教と融合するキリスト教の流れもあったにちがいない。  また、そこから船に乗って地中海東岸を北上し、エーゲ海に出れば、古代ギリシア時代の神殿が林立し、秘儀と神託の場がいたるところに存在した。ヘレニズム末期のめくるめく諸宗教混淆状態は、まだその余韻《よいん》を色濃く残していたはずである。というより、キリスト教そのものが、ヘブライズムとヘレニズムとの緊張関係の中から生まれた教えだったではないか。  さらに目を東方へ向ければ、アンティオキアからエデッサ、ニシビスへと、ペルシア文化の領域へ、メソポタミアの内陸へ、さらには黒海とカスピ海を結ぶアルメニアの内奥部にまで、イエス・キリストの諸伝承をたずさえた多くの人々が、信仰共同体を作りながら移住していったが、そこは東方密儀宗教の宝庫であり、ゾロアスター教の文化圏であり、また無数の形式をもった神懸かりの業《わざ》を駆使する魔術師たち活躍の場であり、はるか東方から釈迦の教えを述べ伝えに来る僧たちの布教の場でもあったのである。  イエスをさまざまに信じた者たちは、まさか身も心も口も固く閉ざして隠れ住んでいたわけではあるまい。彼・彼女らだって自分たちの教えを述べ伝えたのであれば、必然そこには、数限りない語り合いと交流が生じたはずである。相互に影響を与える中で、イエスの教えそのものに、多様な彩《いろど》りが添えられることだってあったろう。早くも三世紀に、マニのような人物がこの地に現れたのは、そうした下地があってのことだ。  そこで私は、夢想せずにはいられない。もしもかりに、正統キリスト教会がローマ帝国と結びつかず、あるいは結びついたとしても比較的ゆるやかなもので、正統派の非寛容的態度が、もっぱら自分たちの教団内部にだけ向けられ、他の信仰共同体に対しては、実力行使をともなわない論争形式にとどまっていたとしたなら、はたして初期キリスト教は、いったいどれほど豊饒な教えをはぐくみえたであろうか。 『ナグ・ハマディ文書』のみならず、『死海文書』や、正統派から「外典」、「偽典」と呼ばれて排除された無数の非正統的伝承が、すべて保持され、さらには、文字化することすらためらわれた秘密の口伝も整序されて、多様な信仰共同体に守られながら、思想的にも発展し、かつ、それらが、たとえば六世紀頃に、ユスティニアヌス(四八二頃—五六五年)によって集大成された『ローマ法大全』のように、ビザンティン帝国のさる文化都市で、イエス・キリストにまつわる一切の諸経典の大編纂がかなったなら、ビザンティン版大蔵キリスト経典だってありえたかも知れない。  歴史学的考察に、このような「もしも」の導入は禁じ手だろう。けれども、シュタイナーがヨーロッパで開示しようとしたものの本質を知るためには、このイマジネーションを一度心の中に呼び起こしてみる必要がある。 †大乗仏教の如来蔵思想[#「†大乗仏教の如来蔵思想」はゴシック体]  ここでいったん、目をアジアの古代に転じてみよう。  釈迦が亡くなってから二、三百年後、インドでは、アショカ王による仏典結集が行われた。アショカ王は、たとえ邪教と呼ばれる教えであっても、そこには一片の真理が含まれているはずである、という信念に立って、仏教をはじめヒンドゥー教、ジャイナ教、ヴェーダ哲学など、あらゆる宗教の聖なる教えを広く結集して編纂せしめた。このとき、アショカ王は、釈迦滅後、互いに他を非難し、分裂を続けていた初期仏教教団に対して、釈迦の教えを内から破壊するような誹謗中傷はやめるよう、いさめてもいる。  初期の段階ですでに、寛容の精神が、仏教の思想的発展を支えていたが、初期仏教における諸経典は、阿含経に見られるように、釈迦がじかに説いた教えの伝承が中心であり、釈迦滅後、遠い未来に弥勒《みろく》が出現するまで、完全な悟りを成就した仏陀は現れない、と信じられていた。したがって、釈迦の教えを信じる者は、出家して戒律を守り、修行に励むことを通して、輪廻の輪から離脱することをひたすら求めた。  西暦紀元一世紀前後——まさにイエスの時代——インドでは、初期仏教のあり方に根本的な革新をもたらす運動が起こった。みずからを大乗仏教と称したこの革新者たちが言うに、仏陀は歴史上の釈迦だけではなく、また遠い未来仏の弥勒だけでもなく、はるかな過去から現在にいたるまで、世のいたるところに遍在し、今もなお、永遠の相をもって、無数の仏陀がおわします、と主張し、一人ひとりがみずから仏陀になることを理想として、慈悲の道を生きる菩薩たらんと欲した。  この革新者たちの思想はまず、西暦紀元一世紀に出現した般若経となって宣言された。般若とは、サンスクリット語 prajna- の俗語形を漢字に音写したものであり、「根源的で直観的な智慧」を意味する。  大乗仏教の創始者たちは、初期仏教の教えが歴史的仏陀に固執して硬化しきっていたのを、空《くう》の思想でもって徹底批判し、何ものにもとらわれない自由な直観のうちに、仏の根源的な智慧が、一人ひとりの内部に湧きでることを主張したのである。  大乗仏教はその後、般若経から維摩経、法華経、華厳経へと思想的展開を示し、やがて如来蔵《によらいぞう》思想を生み出すにいたる。如来蔵とは、「生きとし生けるすべての存在は、その胎内に如来を蔵している」という教えであり、誰もが皆、仏となる可能性を有している、と唱えたのである。  この教えは、西暦三世紀後半にインドに現れ、その後、中国に伝来して老荘思想とゆるやかに融合し、一木一草、一個の石の中にも、仏の種《たね》が備わっているという教えにまで発展した。  そして、これが日本にもたらされて、主に比叡山の天台宗学の中で、この世のあるがままの現実を、まるごと仏の現れとして肯定する、本覚《ほんがく》思想にまでなるのである。仏本来の澄みわたった智慧が、ひとり人間のみならず、どんな存在にも、草木国土にすら、ことごとく備わっているのだから、生々流転するありのままのこの世の姿が、たとえ一見悲哀に満ちていようとも、その悲しみの姿それ自体で、仏の諸相として荘厳《しようごん》される、と謳いあげた。日本文化の精髄を尋ねれば、必ずこの叡山の天台宗学にいたる。 †般若とグノーシス[#「†般若とグノーシス」はゴシック体]  釈迦の滅後からおよそ千数百年にわたる大乗仏教の東アジア的展開を大急ぎで述べたのは、シュタイナー入門にふさわしからぬ所行かも知れない。けれども私が、あえて大乗仏教の思想的展開を紹介したのは、繰り返すが、シュタイナーのオカルティズムとキリスト論に接近する道筋を、可能な限り広く、明るく、ととのえておきたいと思ったからである。  むろん、私の意図するところは、キリスト教と仏教とを単純に比較して見せて、どちらがすぐれているか、などという愚にもつかないことを言いたいからではないし、シュタイナーを仏教的観点から理解すべきだと言うのでもない。  私が言いたいのは、初期キリスト教におけるグノーシス諸派のヴィジョンと、空観という独自の直観から如来蔵へいたった大乗仏教の思想とを照らし合わせてみるとき、奇しくもそれが、ほぼ同時期に発生した聖なる智慧の放射である、という一点なのだ。  この聖なる智慧の放射は、東方においては「般若」によって言い表され、西方においては「グノーシス」という言葉によって表された。グノーシスとは、ギリシア語で「知識」とか「認識」を意味するが、ヘレニズム末期からキリスト教初期の時代においてグノーシスとは、合理的な知性によって獲得する知識や認識のことではない。  二世紀中頃、アナトリア(現在のトルコ地域)で教えを説いたグノーシスの導師テオドトスの言葉を借りるなら、グノーシスとは、——自分がいったい何ものであり、どこから来て、どこへ行くのか、何から解き放たれるべきなのかを知ること——、それがグノーシスなのである。すなわち、グノーシスとは、根源的にして直観的な智慧によって、みずからの本質に神が宿っていると認識すること[#「みずからの本質に神が宿っていると認識すること」に傍点]にほかならない。透徹した自己認識を通して、本来的自己の神性を直観することがグノーシスである。これは、グノーシスとして現れた西方の如来蔵思想である。  この問題に詳しい方々のために、ここで急いで、手短に付け加えておかなければならないことがある。それは、東方における如来蔵・本覚思想が、東北アジアへ伝承され、日本に到達するにいたって、この世のあるがままな肯定へとたどり着いたのに対し、西方におけるグノーシス的展開の一つの帰結が、この物質世界を、デミウルゴスあるいはヤルダバオトと呼ばれる無知なる神の所産と見なし、これを絶対否定して、性急なまでの解脱願望にいたったのは、興味深いコントラストであり、刺激的な問題を含んでいて考察を促されるが、ここでは、これ以上の深入りを許されていない。  一言だけ言うなら、この対比の根源には、おそらくこれに先立つ霊性の展開史がある。東方が、ヒンドゥー教や日本の神道に代表されるような、万有神論的なシャマニズムの伝統を多様かつ強固に保持し続けてきたのに対して、西方が、同様のシャマニズム的伝統を神懸かりの密儀宗教の内部に保持しながらも、そこに、妬《ねた》む神を唯一神として崇拝するヘブライズムの伝統と、光と闇の二元対立を基軸とするゾロアスター教の伝統とが、いわば切っ先鋭い匕首《あいくち》を刺しているのである。そして、この刺し傷から流れ出たものが西洋なのであり、それ以前には、東西の別はなかったと思われる。 †強いられた秘密の伝承[#「†強いられた秘密の伝承」はゴシック体]  正統キリスト教会がローマの権力と一つになったとき、キリスト教徒への迫害は永遠にやんで、神の平和が訪れたかに見えた。が、しかし、そこから新たに、非正統的言説を弄《ろう》する輩《やから》への長期にわたる、容赦のない、執拗きわまる迫害が始まったのである。そして、この方の迫害は、誰も「迫害」とは呼ばなかった。それは、「審問」、「断罪」、「破門」、そして「撲滅」と呼ばれたのである。なぜなら、迫害した方が正統であり、された方が異端だからだ。正しきものが、間違ったものを迫害しても、それは迫害ではなく、神の意志の顕れである!  詳細は省き、こころみに思いつくまま列挙しよう。初期の段階で、異教はすべて禁じられ、最大の思想潮流だったグノーシス諸派も、ローマの力をもってほぼ根絶やしにされ、マニ教も相前後して断罪された。次いでアリウス派とネストリウス派が異端とされて、その教えはいずれも東方へ逃れていった。  ゲルマン諸族の大移動期をはさんで、中世に入ると、異端狩りは東方伝来の思想的刺激を受けた宗派に向けられていく。異端は常に、東方からひそかに持ち込まれた毒であると信じられたのだ。  一一世紀から一三世紀にかけて、南フランスのラングドック地方で徹底弾圧され、虐殺をもって消滅させられたカタリ派およびアルビジョア派は、東方のマニ教的あるいはグノーシス的教説を信じた人々が、地中海経由あるいは北アフリカ経由で南仏に住みついたその末裔《まつえい》であると信じられた。  一四世紀初頭には、かつて十字軍遠征の際に、聖都エルサレムを守護した聖堂騎士団が異端宣告を受けて壊滅させられ、指導者が火刑にふされている。  カタリ派や聖堂騎士団への弾圧を通して、正統キリスト教会は、異端狩りの組織化をはかった。異端審問制度がそれである。一三世紀におけるその創設から、近代の黎明期にいたるまで、この裁判によって処刑された人々は数知れない。  とりわけ、一五世紀から近世を通じて処刑され続けたいわゆる魔女の悲劇を、ここで繰り返すまでもないだろうし、異端宣告によって運命を翻弄されたルネサンス期の天才たちの名を、逐一挙げる必要もあるまい。宗教改革期の前後において、教会の根本的変革を唱えて焼《く》べられた、諸々の先駆者たちについても、同様である。  正統キリスト教会による、ことほどさような恐怖政治的一元支配と抑圧的体制下にあって、それでもなお、かろうじて伝承されてきた教えを、あるいはまたみずからが瞑想の中で感受したヴィジョンを、なんとか人々に語り伝えようとするならば、秘密の結社を作って人知れず教えを伝授するほか、すべがあろうか。  ヨーロッパに派生したオカルト的なもの、すなわち隠され、秘密にされた、霊的なるものに関わる知と技の伝承とは、このように強いられた地下水脈の歴史をもつのである。正統キリスト教会の勝利と栄光、すなわちヨーロッパの昼の歴史は、強いられたオカルト的なるものの夜の伝承と対《つい》をなして、ヨーロッパの濃密な陰影を構成している。この鮮烈なコントラストを西洋の歴史の中に見なければならない。  だからオカルトとは、好事家《こうずか》たちの悪趣味でもなければ、非科学的絵空事でもなく、ましてや安手のエンタテイメントでもない。それは、隠さなければ、すなわちオカルティックでなければ、生き残ることなどできようはずもなかった教えの法統なのである。 †近代におけるオカルト復興[#「†近代におけるオカルト復興」はゴシック体]  そしてヨーロッパは近代を迎えた。市民革命と、産業革命と、国民国家創設の激動の中で、正統キリスト教会はかつての一元的支配力を失い、世俗化した。人々は、新しく編成されていく近代産業社会の中で、伝統と切り離され、都市へ流入し、そこで生きることを学んで、もはや教会が、言うところの「正統派」などではなく、ただ古き「体制派」の残滓《ざんし》にすぎないことを見破った。  一九世紀、自然科学が聖書に記された諸権威を失墜させていったとき、人々は、教会の古くさい衣を脱ぎ捨てて、まったくの俗人として、もっぱら政治と経済に生きるか、それとも、教会の外で、霊的なるものを新たに探究するかの岐路に立たされた。そして、後者の側に身を置いた人々の中から、近代オカルティズム運動が起こったのである。ルドルフ・シュタイナーが、約束の時を迎えてオカルティストとして世に立つのは、この地点なのである。  およそ千九百年に及ぶヨーロッパのキリスト教史の裏と表を概観するには、駆け足にすぎたかも知れない。けれども、オカルトとは何であるのかを理解する上で、私たちの意識を覆っている第一の群雲を意識化するために必要最小限のものを、ここで提示しておかなければならなかった。  西洋における霊性の発展史は、正統キリスト教会による恐怖政治によって、根本的にゆがめられてきた。花咲きえたかも知れない多様で豊饒なキリスト理解は、きわめて初期の段階から、ごく最近まで、徹底して摘み取られてきた。かろうじて、秘密の伝承の中に保持されたものが、オカルティズムとして近代に芽吹いたのである。この基本認識をもって、オカルト的なものに対する通俗的誤解を克服しなければならない。  もちろん、はげしい弾圧にさらされ続けた秘密の伝承が、初期の純粋なヴィジョンを堅持し続けるのは困難である。ヴィジョンは変質を余儀なくされる。公的な禁止は、私的な誘惑と表裏一体である。禁じる圧力が高ければ高いほど、そしてそれが神聖なものに関わっていればいるほど、禁じられたものは黒蜜のような危険な魅惑をまといはじめるからだ。  地下の伝承は、徐々に、秘められた人間的欲望の対象となっていった。オカルト的ヴィジョンが、こうした欲望に濡れるとき、神聖冒涜すれすれの堕落は不可避のものとなる。戯画的な悪魔崇拝すら、そこから生まれた。単にいかがわしいどころか、取り返しのつかない迷妄へと人々を引きずり込む思想までもが、そこから派生した。その意味で、私は何も、西洋におけるオカルト的伝承のすべてが、初期グノーシスの輝きを有しているなどと言うつもりはない。  言うつもりはないが、しかしながら、今述べた西洋における霊性の発展史をふまえることなく、いたずらにオカルト的なものをいかがわしいと断じ、シュタイナーのオカルト的側面にまでひそかに覆いをかけてしまおうとする行為は、本人の主観的良心はどうであれ、歴代の異端審問官が下してきた手に、そっとみずからの手を重ねることになるのだということだけは、言っておかねばならない。 †密教の伝統[#「†密教の伝統」はゴシック体]  さらにもう一つ言っておかねばならないことがある。それは、無自覚な審問官であるその人が、オカルティズムの禁圧史を伝統として有しているはずのない、ここ日本で生きる人間であることのおかしさ[#「おかしさ」に傍点]である。このおかしさに気づかないところに、私が先に言った、私たちの足元を覆っている第二の群雲がある。  第二の群雲に入る前に、ご留意願いたい。再三私が、「ここ日本で生きる人間」という言い方をして、単純に「日本人」と言わないのは、第一に、俗流日本人論をやるつもりはないからだし、第二に、ナショナリズムとは別な次元で語りたいからだし、何よりも第三に、日本国籍をもたずに日本で暮らす人々のことを、言葉上、あらかじめ排除するような議論などしたくないからである。慣れないうちは、読んでいて引っかかる表現かも知れないが、それは私が、たとえば「彼ら」とは言わずに、そう言うときには「彼・彼女ら」というのと同じ意図あってのことだと了解していただきたい。  話戻って、では、ここ日本に、オカルティズムの歴史はないのかというと、空海(七七四—八三五年)がもたらした密教がそれにあたる、と考える人もあろう。先ほど私は、釈迦滅後、千数百年にわたる大乗仏教の展開を概観したけれども、その際、大乗仏教のさらなる発展形式である金剛乗《こんごうじよう》については述べなかった。別段、他意あってのことではない。  六世紀、インドではタントリズムが盛んとなった。それは、ヒンドゥー教に固有な女性性崇拝が、性的力《シヤクテイ》への信仰にまで高まり、その聖典を「タントラ」と呼んだことに由来する。この信仰が、大乗仏教における如来蔵思想と結びついて、性交による忘我の感覚体験を、主客対立を超えた仏の悟りのシンボルとして取り入れたところから、大乗仏教の最終的発展形態として金剛乗密教が生じた。  もっとも、性を象徴として用いたか、現実の男女合体として実践したかは、流派によって仕儀が異なるが、いずれにせよ金剛乗の教えは、手に印を結び、口に真言を唱え、心に仏を観想する行において、うつし身の我《われ》が即、仏であるとする、即身成仏の思想となったのである。日本には、九世紀に空海がこれをもたらし、追って比叡山もこれを取り入れ、たちまち朝野《ちようや》をあげて広く信仰を集めることとなった。  この一連の流れに、私が西洋の歴史において言った意味でのオカルト的要素は存在しない。つまり、政治権力と一体化した正統派が一方に存在して、密教全体を敵視し、歴史の表舞台から徹底駆逐したことなど、なかったのである。  もちろん、極端な性魔術の実践にまで踏み込んだ一部の密教宗派は、公権力の弾圧を受けた。しかしそれも、時の権力者のかなりの部分がこの宗派に肩入れしたのであってみれば、この弾圧は、教えそのものを禁じたというよりも、教えの内密な独占にこそ、その目的があったと言わねばなるまい。  仏教史の話はもういいとしよう。要するに、ここ日本において、西洋的なオカルティズムの伝統は存在しない。密教の歴史は、むしろあからさまに正史に現れている。それのみか、公的な認可を受けた官寺における思想の流れから、市井《しせい》の民衆の宗教性にまで視線をひろげるなら、密教的なるものが、神仏習合を通して、神々への信仰という伝統と深く、分かちがたく融合していく道筋が、無尽に通じている。  たとえば修験道、聖《ひじり》の系譜、祈祷師、呪術師、陰陽師、地蔵信仰、観音信仰、太師信仰など、挙げればきりがない。私たちの足元には、西洋に見られるような禁じられた霊的思潮の屈折した歴史は、ごく最近まで[#「ごく最近まで」に傍点]、存在しなかったのである。  とはいえ、ここで一言、日本の非常に古い神道的系譜に詳しい方面に、お断りしておかなければならないのは、ヨーロッパにおけるオカルティズムとはまた別な意味でなら、ここ日本にも禁じられた霊的思潮の伝承はある、ということである。けれども、シュタイナーの思想を紹介するにあたって、まず必要と思われる視野を確保することに、私は専念している。スポットライトを、あそこにもここにもと網羅的に当てることは、本著の任ではない。 †一六世紀の仏教対キリスト教の宗論[#「†一六世紀の仏教対キリスト教の宗論」はゴシック体]  さて、もしも、私たちの足元を、第二の群雲が覆わなかったなら、おそらく私たちは、近代西洋のオカルティズムに接して、そこで物語られていることの本質が、自分たちの日常的な自然感覚や生命感覚、尊いものへの礼拝形式、また熱烈な願掛《がんか》けの祈念の形に似ているなあ、と思ったことだろう。  あわせて同時に、いぶかしく思ったろうことは、キリスト以前のはるかな過去へとさかのぼりたがる異常なまでの歴史性へのこだわりと、性的なるものに対する過剰な自意識、そして、ごてごてと理論武装した物語の辟易するほどの複雑さである。そしておそらく私たちは、こう問いかけたくなったろう。「いやはや、おまえさん、そこまでややこしく[#「ややこしく」に傍点]なってしまったのは、いったいどういうわけなのかな?」  実際、一六世紀に幾度か行われた、イエズス会宣教師と日本の仏教僧との間の宗論は、今私が述べた感想を裏付けている。  ことわるまでもなくイエズス会は、正統教会に属する、教皇直属の宣教軍団であった。けれども、反宗教改革の先頭に立ったこの修道会は、禁じる側の論理をもっとも突き詰めると同時に、オカルト的思潮が保持していた瞑想法を積極的に取り込んでいて、いわば正統と異端の高い緊張点で接していると言えるので、あえてここで引用するゆえんである。  宗論の様子はどうであったか。宣教師が説く神=デウスの話を、ひとしきり聞き入った僧たちは、口々に、言葉や服装こそちがえ、あなたのおっしゃるデウスは、自分たちが信ずる仏と本質は同じである、と言って、深い敬意と歓迎の意を伝えたのである。  たとえば真言宗の僧は、そのデウスとは大日如来に相違あるまいと言い、浄土宗は阿弥陀様にそっくりじゃと言い、法華宗はそれこそ妙法だと言い、禅宗は究極のところ境地に特段の差別がないと言った。  ところが宣教師は、大日も阿弥陀も、妙法も禅の境地も、ことごとく悪魔の考え出したものだと断言して譲らなかった。それのみか、一般民衆のみならず僧侶にも深く浸透している性の乱れ[#「性の乱れ」に傍点]——と彼らの目には映ったのだろう——を、繰り返し非難してやまなかった。衆道《しゆどう》や婚前交渉、不特定多数との交情が、彼らの神経には、悪魔的な淫祠邪教《いんしじやきよう》の風習としか思えなかったのである。  僧侶たちが、みずからの教えに照らし合わせて、デウスの信仰を、究極的には同じ聖なるものへの敬虔な道であると認めたにもかかわらず、イエズス会宣教師はそこに悪魔の触手しか見ず、攻撃に終始したのである。  人としてどちらがまっとうな態度であるかが、今問題なのではない。道徳的糾弾が目的ではないからだ。重要なのは、歴史的背景の相違を明確にしておくことである。日本には、西洋的なオカルティズムは存在しなかった。正統教会のような、非寛容的禁圧勢力が、精神の世界を支配しなかったからである。かえってオカルト的な教えの内実は、隠されることなく、密教と伝統的信仰の古層にささえられて、多様なというよりほとんど雑多と言っていいほどの信仰形式へと、広く、深く、浸透していった。 †第二の群雲[#「†第二の群雲」はゴシック体]  もしもこの伝統が、今日まで保持されていたなら、私たちは、シュタイナーの思想におけるオカルト的な側面を、いかがわしく思うことなく受けとめられたであろう。しかし、そうはならなかった。なぜなら現在の私たちとこの伝統との間には、二度にわたる断絶が横たわっているからである。言うまでもなく、明治以降の近代化の過程と、先の敗戦との、二度の断絶である。  百二、三十年の時をくぐったこの断絶は、すでに一つの歴史的現実である。私は何も、取り返しのつかない溝を前に、怨歌《えんか》の一節《ひとふし》をうめきたいのではない。ただ、次のことは意識しておく必要があると思うから、ここまで縷々《るる》述べてきたのだ。  私たちは、ヨーロッパに派生した近代社会の市民意識を接ぎ木されてきた。いや受動形で言うのはふさわしくなかろう。みずから懸命に接ぎ木してきた。その接ぎ木は、すでに本体である幹とわかちがたく結びついている。わかちがたいどころか、この接ぎ木は、逆に幹を浸食し、根にまでもぐり込んできて、気づくと、もはやそれは接ぎ木などではなく、もともとそこに根ざしていたかのような様相を呈して、私たちの意識の中に、いびつな木陰を幾重にも広げている。  その陰の下で、私たちの風貌は面妖《めんよう》である。アジアに向かず、もっぱらアメリカの方ばかり向いているとか、顔が見えないとか、そもそも顔がないとか、世評、ぼろくそに言われているその面立ちのことを、私は揶揄して、名誉白人を気取った脱色漂白人種の顔だと言ったことがあるが、自嘲もほどほどにせねばなるまい。  西洋の歴史的展開を、自分自身の意識の中に取り込むのはいい。ただ、ヨーロッパにおける霊的なるものへの屈折した歴史を、その屈折を意識しないまま注入することで、西洋史における昼と夜のコントラストを見失い、それのみか、自分たちの足元にあったはずの霊的なるものへの道筋まで見失い、挙げ句の果てに、あれでもこれでもない、どっちつかずの根無し草となって、末生《うらなり》瓢箪のような面《つら》を下げて現代史をさまようなど、二重に愚かなことである。  たとえば、戦後教育を受けて大人になった人の多くは、自分の子どもが、学校で仏教の基礎を学んだり、民族文化の神話を学んだりすることを、あまりこころよく思わないだろう。人にもよるだろうが、もちろんそこには、ナショナリズムへの警戒がある。日本の近代史を踏まえれば、無理からぬことだ。  けれどもその一方で、学校で習う歴史の中で、かなりの部分、正統キリスト教会の正史を鵜呑みにさせられていることに気づかない。十字軍遠征を、イスラームの側から見ることなど思いもよらないし、キリシタン宣教師が日本人信者をあえて殉教させ、それを口実に軍事支配をもくろんでいたことも、またひそかに日本人奴隷を売買していたことも、言及されることはない。また、アメリカの大統領が就任するとき、聖書に手を置いて宣誓するその姿が、どれほど宗教的なものか気づかない。  大乗仏教とは何であるのか、神道とはどんな由来をもつのか、それらをただ付け足しの文化欄で、おざなりに読み飛ばすのではなく、もっとも基礎的な呼吸法や鎮魂法を、どのような場面でも役に立つ伝統的な心のしずめ方として身につけたなら、麻原彰晃のような人間が教える行法が、どれほど危険で、無意味で、利己的なものか、十代の少年少女にだって見抜けただろうし、突如襲いかかってくる内なる殺意を、自分の心でこらえるための備えともなったろう。  でも、そんな方向にはいかなかったのだ。霊的なものに対する伝統の道筋が覆い隠され、その上に、もはや本体とすらなった近代市民意識の接ぎ木が、こぎれいに漂白されて、覆い被さっているのが現状である。これが二重の群雲である。  そして、現代社会の閉塞状況下で、シュタイナーの教育思想が喧伝《けんでん》されると、私たちは、まるで俗化された正統教会の説教師のように、そのオカルト的側面に鼻をつまんでみたり、あるいは逆に、日本の伝統的な霊的伝承そのものがわからないものだから、自分たちの足元を飛び越えて、シュタイナーに妙な理想を投影したりしてしまうのだ。これらの反応は、自分の足元が見えなくなってしまい、霊的なものに、そもそもどんな態度で臨んだらよいかわからなくなってしまった証拠である。  問題なのは、シュタイナーがなまじあちこちで、霊的なるものへいたろうとするアジア的な修行法のことを、やれ時代に合わないだの、先祖返り的だのと、余計なお節介を出して批判してくれたものだから、それをまたぞろまるごと鵜呑みにする人々がいて、わずかに残されている日本の伝統的な霊性をも、だからダメなんだと全否定してしまう、その教条主義的な態度である。接ぎ木の上にまた別な接ぎ木をして、どうするのか。シュタイナーの思想まで群雲の一つにしてしまうつもりなのか。  欧米かぶれの頭のまま、欧米伝来の新機軸「シュタイナー」に惚れ込み、彼のアジア的霊性に対する批判的断章を、文脈をわきまえずに鸚鵡《おうむ》返しするその様は、近代日本人が群雲の中で犯し続けてきた自傷行為の二の舞である。ヴァルドルフ教育の実践的導入に余念のないインテリ層が、日本の伝統的霊性に対して冷血漢でないことを願わずにはいられない。  私たちが、意識を覆うこの二重の群雲を吹き払い、ヨーロッパにおけるキリスト教史の陰の側面を認識し、オカルティズムに対する誤解を解き、その上でなによりも、自分の足元に帰って、かろうじてまだ残されている霊性のカンテラにふたたび火を入れようと努力するとき、そのときこそ、実は、シュタイナーの思想的営為から、力強いインスピレーションを得ることができるのである。なぜなら、シュタイナー自身が、みずからの足元の霊性を徹底して掘り起こそうとした人間だからだ。  結語を先取りして言うなら、シュタイナーは、西洋における、強いられたオカルト的伝承を、自由を求める近代人の思考力のもとに開示することによって、幾重にもゆがめられてきたヨーロッパの霊性の歴史に終止符を打とうとした。彼は隠されたものの公開者として、西洋の歴史の中に立っている。その意味で彼は、オカルティズムに終焉をもたらそうとした人物であり、その意味でなら、まさに反オカルティストと呼ぶことができよう。  オカルティズムを公開すること、そのことを通して、シュタイナーは、イエス・キリスト滅後二千年を間近にひかえた二〇世紀初頭のヨーロッパに、|大乗キリスト教《マハーヤーナ・クリスチヤニテイ》とも呼ぶべき西方の如来蔵思想を、時代にふさわしく、そしてヨーロッパにふさわしく、復興しようとしたのである。 [#改ページ]   第四章[#「第四章」はゴシック体]   神智学運動へ[#「神智学運動へ」はゴシック体]   ブラヴァツキーの闘い[#「ブラヴァツキーの闘い」はゴシック体] [#改ページ] †新世紀のベルリン[#「†新世紀のベルリン」はゴシック体]  世紀の変わり目が近づいていた。シュタイナーは、ワイマールでのゲーテ研究家としての生活に区切りをつけ、ベルリンへ出た(一八九七年、三六歳)。そこで彼は、ゲーテ没年(一八三二年)に創刊された由緒ある週刊誌『文芸雑誌』の編集者となり、社会的な活動の場を、それまでのアカデミズムの世界とは対照的な人間関係へと広げていった。  学者や貴族らに囲まれた、上流社会でのサロンふうな生活から、アナーキスト、社会主義者、ボヘミアン、詩人、芸術家、おまけに奇人変人までもが入れ替わり立ち替わり出入りする、帝都ベルリンのカフェとバーの生活に変わったのである。  雑誌編集者となったシュタイナーがベルリンで作った人間関係は、この時代を象徴するものだった。編集の仕事を通して、作家や演劇人との交友をもったほか、シュタイナーは、大都市の労働者階級と直接的な関係をもつことができた。ベルリンの労働者教養学校の幹部が、学校で講師として教えてくれないか、と頼みにきたのである。  当時、都市の無産階級の中には、燃えるような知識欲を抱いた人々が大勢いたにもかかわらず、彼・彼女らの心からの渇望を満たす場がなかった。ベルリン労働者教養学校は、ドイツ社会民主党の創始者であるウィルヘルム・リープクネヒト(スパルタクス団を創設したカール・リープクネヒトの父)が、労働者に対する社会主義思想の普及を目的として作ったものだった。そこでシュタイナーは、イデオロギーとはまったく無関係に、自分のやりたいようにやっていいという条件付きで、講師を引き受けたのである。  とはいっても、仕事帰りに軽い夕食を済ませてカルチャー・センターへ通うのとはわけがちがった。労働条件は過酷であり、深夜労働は当たり前の時代だったから、学校が開かれるのは夜の九時から深夜に及んだ。勉強したくてやってくる労働者も、猛烈な睡魔に襲われる。つまらない授業をしていると、たちまち受講者のけたたましいいびきが襲った。  けれども、シュタイナーが担当した歴史と弁論術のコースは、活気に満ちていた。とりわけ弁論術のクラスはそうだった。受講者が授業の主役だったからだ。シュタイナーは、授業の冒頭で話し方の基礎を簡単に解説し、その後は、受講者たちに自由に演説をさせ、議論した。彼のクラスは、またたくまに人気を得ていく。彼は週五回、学校に通い、クラスはときに二〇〇人を越えた。  講師を引き受けてから一年あまりで、彼は、活版印刷の発明家グーテンベルクの生誕五百年を祝う記念式典に招かれた。ベルリンの大競技場で、印刷業にたずさわるおよそ七〇〇〇人の労働者を前に、マイクなしで、祝辞を述べる栄誉を受けたのだ。  労働者たちとの活発な交流とは別に、シュタイナーは、当時のもっとも前衛的な思想家たちと個人的な交友関係をも結んでいった。中でも重要なのは、スコットランド生まれの無政府主義者ジョン・ヘンリー・マッケイと、アメリカの社会思想家ベンジャミン・タッカーである。両者はともに、個人の自由を断固として擁護し、一切の権威主義を拒否し、権力による秩序維持をまったく必要としない社会を力説した。  ベルリンで危険人物と見られていたマッケイらに深く共鳴したシュタイナーは、マッケイとの往復書簡や、タッカーの論文を、自分の『文芸雑誌』に掲載した。すると、雑誌の定期購読者たちからは、抗議が殺到した。「学界では名の知れた伝統ある雑誌を、この新米の編集者はいったいどうするつもりなんだ」、というわけである。ベルリンの大学教授たちは、購読者リストから身を引いていった。シュタイナーは、あえて物議を醸し、みずからの信念をマッケイらの思想を通して語ろうとしたのである。 †神智学からの呼び声[#「†神智学からの呼び声」はゴシック体]  一九〇〇年を迎えたとき、シュタイナーには今述べたように、非常に広範な人々との交流があった。けれども、雑誌編集を通して知り合った数多くの作家や思想家たちは、シュタイナーにとっては共鳴できる人々ではあったが、彼が生涯のテーマとしていた霊的なるものと現実世界との間の橋渡しをする仕事に関しては、心の底から共同して働ける人々ではなかった。  同年九月、シュタイナーは見ず知らずの人物から、ニーチェについて講演を依頼される。ドイツにおける神智学運動の中心人物であったブロックドルフ伯爵夫妻である。夫妻は自宅に「神智学文庫」という名のホールをもち、そこで毎週、さまざまな人を招いて講演の夕べを開いていた。つい数週間前、ニーチェはこの世を去ったばかりだった。ブロックドルフ夫妻は、ニーチェ論を出版し(一八九五年)、雑誌でもたびたびニーチェを論じていたシュタイナーに、何か話してほしいと依頼したのである。  ニーチェについて語り終えたシュタイナーは、ブロックドルフのサークルには、霊的な世界観に関して非常に高い関心があることを実感したので、次いで、二回目の講演を頼まれたとき、これまでそうしてきたように、自然科学的装いや哲学的外皮で自分の言いたいことをつつむことなく、『ゲーテの隠された開示』と題された講演の中で、みずからのオカルト的信念を直截に語った。魂の中で直接体験してきたことを率直な形で語ったのは、はじめての経験だった。神智学文庫に集まった人々の反応は非常に手応えのあるものだった。新しい人間関係が、はじまろうとしていた。  さらに講演を続けるよう頼まれたシュタイナーは、神智学グループとの結びつきを決定的なものにすべく、長年あたため続けてきた最重要テーマを、二年越しの連続講義として、真正面から取り上げた。一九〇〇年から翌年にかけての冬に連続二七回語った、『近代精神生活の黎明期における神秘主義』と、一九〇一年から翌年にかけての冬に連続二五回語った、『神秘的事実としてのキリスト教』がそれである。 †ドイツ神秘主義の霊性[#「†ドイツ神秘主義の霊性」はゴシック体] 『近代精神生活の黎明期における神秘主義』の講演においてシュタイナーは、マイスター・エックハルトからヨハネス・タウラー、ハインリヒ・ゾイゼ、ニコラス・クザーヌス、パラケルスス、ヤコブ・ベーメ、そしてジョルダーノ・ブルーノ、アンゲルス・シレジウスといった、一三世紀から一七世紀にかけて、ヨーロッパに現れた一一人の神秘家たちを論じた。時代に注目いただきたい。一三世紀、トマス・アクィナス(一二二五頃—七四年)によって正統キリスト教会の神学大系が集大成されたその直後から、シュタイナーは論を起こしている。  正統教会の神学は、草創期にプラトン哲学と結びついて以来、ギリシア哲学を通して深められたが、中世後期にイスラーム文化圏から大量のアリストテレス文献が持ち込まれるにいたって、新たな哲学的統合が求められ、トマスがこれを、『神学大全』の中に秩序づけた。一言で言ってそれは、理性と信仰、学問と啓示との間に調和的な秩序と統一をもたらそうとするものであった。理性は信仰の前触れではあっても、教会が伝える神の啓示は、決して理性の解明しうるものではなく、ただ信仰だけがそれを、神の恩寵のうちにとらえることができる、と教えたのである。  ところが、エックハルト(一二六〇頃—一三二八年)から流れる思潮は、一見安定したかに見えたこのスコラ学の構築物を、内側から突破していく。エックハルトは、神を人格神的にとらえる教会の教えを踏み越えて、神そのものの本質へと突き進んだ。  彼は言う。神とはあらゆる存在を超えた「無」であり、「無底の闇」である。この神に出会うためには、魂の奥底へ向かい、神と同質の底なしの闇にまで降りていかねばならない。そして、人間が、肉体その他の外界にある物質的なものとの結びつきを放棄して、魂の「砦」、あるいは魂の「火花」と言われる奥処《おくが》にまで、無になりきって降りていったとき、そこで魂は、自己の内奥に神の子を生む。こうしてエックハルトは、キリストと人間の魂との究極的合一を唱えた。  エックハルトのこの教えは、ローマ教皇から異端の嫌疑をかけられ、彼の死後、正式に異端宣告が下された。彼の説教集は処分され、写本も禁じられた。以後彼の思想は、歴史の表舞台から消える。グノーシス派と同じように——。  けれども、彼の教えが完全に歴史から抹殺されることはなかったのである。彼の弟子ヨハネス・タウラー(一三〇〇頃—六一年)がこれを継承し、さらにハインリヒ・ゾイゼ(一二九五—一三六六年)へと伝えた。写本はひそかに読み継がれた。カタコンベや、修道院の図書館の奥で、人から人へと法統が継がれた。そしてそこから、のちに「ドイツ神秘主義」と呼ばれる大河が流れ出たのである。  エックハルトの資料を熱心に集めたニコラス・クザーヌス(一四〇一—六四年)は、エックハルトが魂における「無」、あるいは「闇」と言ったものを、「神聖な無知」としてとらえた。彼は言う。神聖な無知の中で私たちの魂はまったき闇に包まれるが、暗ければ暗いほど、そこに光が訪れる。暗黒の中で輝く光を見ることが、神を知ることなのだ、と。  パラケルスス(一四九三—一五四一年)は、エックハルトの教えを医学と化学の領域で実践し、自然神秘主義的な錬金術を深めていったが、その一方で、正統医学の側からは追放の憂き目にあい、流浪の身になっている。  ヤコブ・ベーメ(一五七五—一六二四年)もまた、エックハルトの無底としての神の思想を受け継いだ。そして、人間がみずからをまったく放棄するとき、魂の場にえぐられた絶対の受け身の中に、神が光として舞い降りる、と唱えたのであるが、彼もエックハルト同様、正統信仰からの違反を訴えられ、一時期執筆を禁じられた。  最後にジョルダーノ・ブルーノ(一五四八—一六〇〇年)を見ておこう。彼はクザーヌスが言った無の中の神と、パラケルススの自然哲学とを結びつけて、壮大な宇宙論を唱えた。神は宇宙と一つであり、宇宙のいかなる部分にも、一粒の砂にすら宿っている[#「一粒の砂にすら宿っている」に傍点]、と主張したのである。当然彼のこの思想は、早い段階で異端の嫌疑をかけられた。彼の人生は、異端審問官からの逃亡と放浪に費やされたが、ついに一六〇〇年、火あぶりの刑に処せられている。  ドイツ神秘主義から流れ出た地下水脈の最大の特徴は、人間の魂の奥底に神を見出そうとする熱烈な希求と、自然の中に神の生ける本質を洞察しようとする点である。この思潮は、正統教会の大伽藍ふうな神学大系から繰り返し排除されながら、中部ヨーロッパにおける精神史を根底から支え続け、六百年の雌伏の果てに、一八世紀末から一九世紀にかけて、ドイツ観念論哲学ならびにロマン主義として、精神史の主流に躍り出たのである。  ここにシュタイナーは、自分自身のオカルト的立脚点を、はじめて鮮明にしたのである。彼は、神的なものに関する智慧の学を、すなわち彼にとっての神智学[#「彼にとっての神智学」に傍点]を、中部ヨーロッパの精神史そのものの中から、掘り起こしてみせたのである。 †キリスト論[#「†キリスト論」はゴシック体]  次の年、一九〇一年一〇月から翌年三月にかけて、シュタイナーは『神秘的事実としてのキリスト教』を語った。前年取り上げたドイツ神秘主義の思潮を古代の源流までさかのぼり、イエス・キリストの出現へといたる長い道のりを集中的に取り上げることによって、キリスト教の存在意義とその本質を、明らかにしようとしたのである。  シュタイナーはまず、キリスト出現以前の秘儀の伝統を取り上げた。ラテン語で mysterium「秘儀」とは、通常の認識方法をもってしては近づきがたい、神や宇宙についての智慧を、修行と儀式を通して、人間に伝授することである。  長期にわたる清めの修行のあとで、秘儀に参入しようとする志願者は、神殿や洞窟など聖なる場所に連れて行かれ、そこで導師から儀式を施される。集中的な念誦や瞑想、時には薬物をも用いて、志願者は深い眠りに導かれる。その眠りは三日続き、志願者の肉体はほとんど仮死状態におかれるが、その間、志願者の魂は肉体の拘束から解き放たれ、神々の世界に近づくのだ。三日後、ふたたび肉体に戻された志願者は、記憶の中で、自分が体験したことを思い出す。こうして志願者は秘儀参入者となり、秘密の智慧を得るのである。  これもまた一つのオカルト的伝承である。けれども、秘儀におけるこのオカルティズムは、先に述べた、正統教会の禁圧によって強いられたオカルト性ではない。第一、教会はまだ存在しなかった。ここで言う、オカルト的であることの意味は、特別に選ばれた者が、一般には決して公開されることのない秘儀を通して、神的なるものに関する体験を得る、ということである。このオカルティズムは、外からの禁圧によって隠されたのではなく、霊的な知と技を独占することによって、特定の人間集団(多くは神官階級)が、一般民衆にぬきんでた霊的権威を身におびることに、その特徴があった。  では、一般の民衆には何が与えられたかというと、信仰と犠牲を捧げる道であった。秘儀参入者は、永遠の存在を、秘密の儀式を通して認識し、みずからを権威づけ、祭政一致の神権制でもって民衆を統べ、壮大な神殿文化を建設したが、一方で民衆には、秘儀の認識を隠し、その代わり神話的な神々のイメージを与えて、恐るべき神々に供犠を捧げ、礼拝せよ、と教えたのである。  この、いわば霊的エリートたちによる神的認識の独占の歴史に終止符を打ったのが、「人間の肉体に宿った神の御言葉《ロゴス》」というキリスト教の核心だった、とシュタイナーは言うのである。  これまでは、選ばれた人間が、長期の修行の果てに、生命の危険まで冒してようやくかいま見ることのできた世界の創造原理、すなわち神的ロゴスが、今、肉の目で見、肉の手で触れることのできる人となって、私たちの間に宿った。——このまったく革新的な宣教は、古い伝統を墨守《ぼくしゆ》してきた人々にとっては、秘儀の破壊と映った。古来、秘儀への破壊行為は、死罪と定められていた。  神のロゴスが肉体に宿ったということは、神的存在と人間との関係が、これまでとは百八十度変化したことを意味した。人はもはや、命がけの秘儀を通って、永遠なる存在をかいま見、死の門をくぐってはじめて、神々の世界へ戻るのではなくなったのである。  神の受肉の思想は、肉体のうちにある人間そのものの全的肯定となった。人はみずからのうちに、神的なるものをとらえることができるようになった。肉になったロゴスというイエス・キリストの出現は、人間がやがて、言葉を用いた思考活動によって、内在的な神性を認識できるようになる——その先駆けであったのだ。  古代秘儀からイエス・キリストへという歴史的転回は、神的なものと人間との関係を、次の三点において、決定的に変化させた。  第一に、神的なものに関する知と技は、霊的エリートの独占的秘儀ではもはやありえず、すべての人間に公開されるべきものとなった。  第二に、人々は神話的イメージを通して神々を畏れ、供犠を捧げる必要はなくなった。神的なものは、信仰の対象から、言葉を通して思考する認識の対象へ、変わったのである。  第三に、したがって神的なものは、肉体を離脱した夢のような意識状態の中で啓示されるのではなく、肉体のうちにある人間の目覚めた意識の中で、意識的に体験されるものとなった。  以上三つが、人間イエスへのキリストの受肉を通して、紀元一世紀の歴史の中に実現された出来事の核心である、とシュタイナーは述べたのである。  しかしながら、古代的秘儀の影響力は当時まだ強く、その残照は黄昏というにはまだ煌々《こうこう》たるものがあった。しかもその一方で、霊的・神的なものに対する人々の思考力は、まだ萌芽の段階にあった。神的存在を、直観的思考力でもって認識する歩みは、すべての人々がただちに参与しうる事柄ではなかったのである。  であるがゆえに、イエス・キリストの出来事が歴史上その全容を顕すようになる前に、一時期[#「一時期」に傍点]、永遠なるものに関して開示された認識は、イエス・キリストに対する信仰という形式を通して、キリスト教徒の信仰共同体の中で保護されなければならなかった。  初期キリスト教時代におけるグノーシス派と正統教会との葛藤を、この時代状況の中に見ることによって、シュタイナーは、宗教としてのキリスト教が、教会制度の中で発展せざるをえなかった歴史的必然性を説いて、『神秘的事実としてのキリスト教』と題した連続講義を締めくくったのである。 †ドイツ的霊性に甦るキリスト[#「†ドイツ的霊性に甦るキリスト」はゴシック体]  シュタイナーが、ふた冬にわたるこの連続講義にかけた真意は、明らかだろう。一つの歴史的必然として、いったん正統教会組織がある意味で庇護し、ある意味で抑圧もした、あの神的なものについての認識が、およそ千年の雌伏を経て、一三世紀に始まるドイツ神秘主義の流れの中に、その本来の姿を甦らせようとした、と言いたいのである。  講義『神秘的事実としてのキリスト教』の中の、おそらくもっとも重要な部分は、シュタイナーが、キリストの出来事を前後にはさむプラトン主義の核心部分を紹介したときの次の言葉である。 [#ここから2字下げ]  世界に注入された神は、人間がその創造の言葉を理解し、魂内部で反復することにより、魂内部で復活する。その場合、人間は、自己の内部で、霊的な仕方で神を生み、人となった神の霊であり、ロゴスであるキリストを生むことになる。……認識とは、霊的世界でのキリストの誕生を意味していたのである。   ——『神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀』石井良訳 人智学出版社 [#ここで字下げ終わり]  そして、マイスター・エックハルトは、ルカ福音書の中で、神の子イエスの誕生を祝して天使がマリアに言った言葉、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」を説いて、こう語っていた。 [#ここから2字下げ]  神のわざも同様である。神はその独り子を魂の最も高きところに生む。神がその独り子をわたしの内に生むとき、同じ動きの中でそれをうけて、わたしはその独り子を父の内へと生みかえす。   ——『エックハルト説教集』田島照久編訳 岩波文庫 [#ここで字下げ終わり]  この二つの発言はともに、人間の魂におけるもっとも純粋なふるまい、すなわち被造物の誘惑に穢れていない智慧の働きが、魂内部で神をとらえようとするとき、その魂の中に、神の子=ロゴスが復活する、と語っているのである。復活とは、人間の魂の奥底に宿った神性の明晰な自己認識にほかならない。  シュタイナーは、この二つの講演を通して、神智学運動にたずさわる人々との決定的な縁結びを行おうとした。彼は、出会いの一等最初から、イエス・キリストという歴史的出来事の本質がドイツ的霊性の本流にひそみ、今その本来の姿を顕そうとしている、と訴えたのである。  なぜ彼が、このテーマを縁結びの切り札として提示したのかを知ろうとするなら、当時の神智学運動をめぐる現実をふり返っておかなければならない。 †ブラヴァツキーの神智学運動[#「†ブラヴァツキーの神智学運動」はゴシック体]  神智学協会は、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(一八三一—九一年)によって、一八七五年一一月にアメリカのニューヨークで設立された。設立当初より、この運動は、次の三つの原則を掲げた。すなわち、第一に、人種、肌の色、宗教、社会的地位等による一切の差別なしで、友愛関係を作ること、第二に、人類に共通する道徳を確立するために、世界中の諸宗教を研究すること、第三に、個々の人間の中に働く神的な力を研究し、開発すること、以上である。  ブラヴァツキーは神智学運動の本部を、すぐにインドのボンベイ(現ムンバイ)に移し(のちアディヤールへ移動)、そこで、アーリア・サマージという、インドのヴェーダ宗教復興運動体と結びつき、神智学協会をこの運動体の一支部にするのである。  言うまでもなく当時インドは、イギリスの植民地であった。一八五七年に、大規模な反植民地主義独立戦争が起こったが(日本では「セポイの反乱」として知られるが、この名称は適切ではない)、イギリスはこれを鎮圧し、以後、この反英独立戦争について語ることをインド人に禁じた。この独立戦争が掲げたスローガンが、植民地支配の本質を射抜いていたからである。決起したインド人らは、「われわれの宗教を守れ」と叫び、キリスト教を圧政支配の元凶と見抜いたのである。  インド人にとって、ヨーロッパ文明の本質とは、物質文明や帝国主義権力、資本主義産業であるよりも、それらを媒介にしてインド古来の伝統と文化を破壊しようとする、キリスト教そのものであった。  インド人がヒンドゥー教とイスラームとの微妙なバランスの上に、飢饉とはほとんど縁のない暮らしをいとなんでいたところへ、イギリス人は、この二つの宗教を邪教視する宣教師とともに乗り込み、居丈高《いたけだか》な態度と巧妙な手口でもって、両者の間に憎しみの種を播き、伝統的な社会構造に致命的な打撃を与えていった。  プランテーションという収奪型農業を導入し、肥沃だった農地を枯渇させることによって飢饉を頻発させ、その結果生じた貧富の差を梃子《てこ》にして、それまでは必ずしも差別のシステムではなかったカースト社会を、憎悪と忍従の宿命的支配制度にまで激変させた。その搾取の頂点に、イギリスは君臨したのである。ヴィクトリア女王の王冠を飾る宝石は、インドの大地から搾《しぼ》り取ったものだった。  一八五七年の独立戦争は、キリスト教徒が自分たちに強いてきたことを、インド人が決して忘れていなかったことを血で示した。だからこそイギリスは、これを許さなかったのである。  そこへ、伝統的霊性を復興しようとするインドの運動体と結びついたロシア人女性が現れ、インドに乗り込み、世界的なひろがりをもつ運動を開始した。しかも彼女は、人種差別とキリスト教徒の傲慢な態度を歯に衣着せず真っ向から批判し、世界の諸民族が有する多様な霊性がそれ自身で固有の価値をもつこと、自由な態度で霊的なものを探究することによって、闘争と分裂にあえぐ世界に真の友愛がもたらされることを訴えた。  イギリスのインド統治機関、キリスト教徒、植民地支配によって富を得ている者、有色人種をさげすみ、みずからの優越を信じて疑わない白人の人種差別主義者等々、これら一連の勢力が、彼女のことを敵と見なすのは当然である。以後、彼女の人生は、組織的な誹謗中傷の風雨にさらされる。  いわく、ブラヴァツキーはいかさま霊媒師である。その著作たるや、剽窃《ひようせつ》と妄言のでたらめなつぎはぎにすぎない。イギリスのインド統治を混乱させるためにロシアが送り込んだスパイである。所詮は金目当ての詐欺師だ。売春婦だ等々、あれやこれや。  あげればきりがないほどの下劣な攻撃が、組織的、恒常的に、インド、イギリスのみならず、ヨーロッパやアメリカの、ゴシップ好きなメディアをにぎわした。ブラヴァツキーと神智学協会は、いかがわしいものの代名詞となって、人々の記憶に刷り込まれていった。基本的にこういったイメージは、ブラヴァツキーの死後も強化され、今日にいたるも根本的な再評価が実現されたとは、とても言い難い状況にある。  ブラヴァツキーの生涯と思想を見るとき、その意図は一貫している。彼女は、一九世紀後半にアジア各地で勃興しつつあった反植民地闘争の流れの中に身を置いた。そして、伝統的諸宗教の霊性を正当に評価する精神作業を通して、欧米列強諸国による精神的支配からの解放運動を興そうとしたのである。 †シュタイナーの神智学批判[#「†シュタイナーの神智学批判」はゴシック体]  ブロックドルフ伯爵夫妻から「神智学文庫」での講演を依頼される以前、シュタイナーは神智学のことを知らなかったわけではない。ウィーンに住んでいた二十代の頃、シュタイナーにはフリードリヒ・エックシュタインという同年の友人がいたが、彼は若くしてブラヴァツキーの個人的知遇を得、オーストリアの神智学協会支部を担っていた。エックシュタインはオカルト的知識が豊富であったので、シュタイナーは彼とよく議論した。また同じくウィーン時代のこと、シュタイナーが出入りしたサロンの一つに、ワーグナーの崇拝者であったマリー・ラング夫人のサロンがあったが、彼女もまた神智学に傾倒していた。  ドイツには、一八八四年に神智学協会の支部が作られていた。中心人物としては、同支部設立者の一人であり、代表となった法律家のウィルヘルム・ヒュッベ=シュライデン、医者でありオカルト的著述家として著名だったフランツ・ハルトマン、そしてシュタイナーを講演に招いたブロックドルフ夫妻がいた。  けれども、ブロックドルフ邸に招かれるまで、シュタイナーは、ブラヴァツキーの著作をはじめとする神智学の主要文献はまだ読んでいなかった、と言っている。そればかりか彼は、自分が知り得た範囲での神智学に対して批判的であり、その姿勢は、ベルリンに移ってからも変わらず、たとえばフランツ・ハルトマンの著作が出版されたときには、『文芸雑誌』上で神智学批判すら書いている。  いったい、ブラヴァツキーを読まずに、神智学のどの点をシュタイナーは批判したのか。彼の批判は二点あった。一つは秘密主義であり、一つは心霊術である。  秘密主義に関しては、自伝の中でエックシュタインとの議論を回想しながら述べている。エックシュタインは、神智学のみならず、オカルト的知識を豊富にもっていたが、彼は、それらの知識は一般に広く知らせるべきではなく、その価値を十分に認識しているごく少数のグループ内部にとどめおくべきだ、と語った。このような態度は、エックシュタインに特有なことではなく、先に述べた通り、古代からの秘儀の伝統を踏まえたオカルト結社の原則であった。  けれどもシュタイナーは、もうそのような時代ではない、と判断したのである。オカルト的知識の機密保持などアナクロニズムであり、むしろ積極的に、誰もが皆、みずからの能力に応じて自由に学びうる一般的な知識の一つとして、公開されなければならない。これがシュタイナーの時代認識であった。この時代認識を支えるのが、先に述べた彼のキリスト論であることは言うまでもない。  もう一つの心霊術批判は、一九世紀に流行した俗悪な亜流オカルティズムへの批判と一体である。心霊術は、霊媒を使った死者との交信や、霊的なものの物質化といった、いわゆる心霊現象なるものを、科学的に探究すると称した精神運動であり、当時、一世を風靡《ふうび》していた。ある意味では、現代においてもポピュラーなオカルト現象として、人口に膾炙《かいしや》しているのではなかろうか。死者の口寄せ、こっくりさん遊びなどが、それである。  元来は、非常に古くから、世界のどの地域にも存在したさまざまな占いがそのルーツなのだが、一九世紀には、合理的には説明のつかない諸現象を、科学的な装いのもとで探究することによって、霊的存在を実証的に証明しようとする、一種のエセ科学になっていた。  降霊術は、死者が残した思いを、過敏な感受性をもつ人間に依り憑かせ、その人の口を通して、死者の思いを聞きとろうとするものであった。それがやがて、死者との通信を利用して未来を予想したり、未来に働きかけようとする御利益信仰に変じていった。今でも、霊障占いや先祖占いなどと称して、霊感商法という精神的恐喝の導入に利用されている。  またそのような降霊術をほどこす際、奇怪な現象が発生した。触ってもいないのに物が動いたり、壁が音を立てたり、虚空《こくう》から物質が出現したり、である。心霊術に熱中した人々は、これぞ霊が実在する証拠だと興奮した。こうしたことは、今でも超常現象としてマスコミのドル箱になっている。  これら心霊術は、伝統的な教会の権威が失墜し、唯物論が時代を牽引する中で、霊的なものへの道を見失いつつあった多くの人々を惹きつけた。それは一見、霊的なものへ人を向かわせるように見えたが、しかしその実、そこに支配していたのは、霊的なものを物質的な現象にまで引き下ろそうとする唯物論の変種であった。 †異常なものへの異常な執着[#「†異常なものへの異常な執着」はゴシック体]  特異な物質的現象によって霊的なものの実在を証明するということは、霊的なものを物質的にとらえているのであって、霊的にとらえているのではない。そこに現れるのは、霊的なものではなく、異常な物質現象だけである。  たとえば、川の流れがあるとしよう。その流れが無理矢理せき止められたり、方向転換を強いられたりすれば、なるほど決壊して土砂をぶちまけたり、堤の草木をなぎ倒したりして、周囲の環境に異変をもたらす。けれども、ぶちまけられた土砂や、なぎ倒された草木は、氾濫した水の作用の結果ではあるが、汚泥や根こぎにされた草木それ自身が、水の本質なのでは決してない。  私たちが水の本質をつかむのは、自分の内部にも流れている水の要素を通してである。水を内在的に直観するためには、外に洪水を起こす必要はまったくないのであって、日々の暮らしの中で絶えることなく流れつづける水の要素に目覚めればよいのである。  それをわざわざ異常な事態を起こしておいて、その異常性でもって水をつかもうとするのは、あたかも土砂や褐色に変じた木をつかみあげて、これが水の本質だと言い張るのに等しい。異常なものは、要するに異常なものにすぎない。それを異常性ゆえに信じた者は、ついにその異常性を離れては、事の本質を理解することができなくなるのである。  そして、奇跡的出来事からより奇跡的な出来事へ、世の不思議からさらなる世の不思議へとあてどなくさまよい、ついにはみずからが異常の虜となって、確かな現実感覚を喪失してしまう。その実例は、いつの世にも尽きることがない。  シュタイナーは言う。目が光を見ることができるのは、目が光によって作られたからだ、と。これがゲーテのテーゼである。同質のものだけが、互いを真に理解する。だから、自然の中で働く霊的なものは、人間の内部の霊的なものを通してのみ、その本質にいたることができるのである。そして、人間における霊的なものとは、自我のうちに現れる、自我の振る舞いとしての思考である。  霊媒を使った降霊術は、人類が長い歴史の中でつちかってきた自己意識的な思考力への裏切りであり、頽廃現象であった。霊媒それ自身を含め、降霊術の参加者は誰一人として、能動的な精神を働かせていない。誰もが皆、現象に対して受け身である。霊的なものへの直観は、そのような受動的精神のうちには生じない。したがって、そこで体験されるものは、仰天したい、驚嘆したい、怖がったり、おもしろがったりしたいという、そこに居合わせた者たちの、受け身で、低俗な、無意識的欲求以外の何ものでもないのである。  シュタイナーが神智学運動に関わる以前から抱いてきたこの批判は、その後、ブラヴァツキーの思想の中に確認されることとなる。ブラヴァツキーもまた、オカルト的伝承に関する秘密主義は、現代においては人々を引き裂く党派根性の温床でしかなく、心霊術は、それに熱中する者の魂を劣化させるのみならず、そもそも死者の名誉を著しく傷つけ、およそ神的なものに対する冒涜である、と批判していたのである。 †対極の道を照らし出す同一の認識[#「†対極の道を照らし出す同一の認識」はゴシック体]  ブラヴァツキーとシュタイナーの歩みを見るとき、そこに存在する対極性と根源的同一性とに注目せざるをえない。かたやブラヴァツキーは、ロシアの貴族に生まれたのに、一七歳で結婚したその半年後に家を飛び出し、諸国遍歴の旅に出てしまう。ヨーロッパ全域と中東諸国を巡り、アメリカに渡ってカナダから中南米を渡り歩き、船に乗って喜望峰周りでインドへ行くのだ。神智学協会を立ち上げてからの人生も、世界遍歴の連続である。  これに対し、シュタイナーはどうかというと、鉄道技師の息子として生まれ、引っ越しを重ね、成人してからも、また人智学運動に専念するようになってからも、一所不住に近い講演から講演への移動の連続であった。たえず動きまわる人生ということでは似ているのだが、興味深いことに、シュタイナーは一生、ヨーロッパを出なかったのである。  東欧の諸都市で講演はしたけれども、ボスフォラス海峡を渡ってアナトリアに出ることはなかったし、地中海を越えて北アフリカに足を伸ばしたこともなければ、大西洋を越えたこともなかった。彼は、ヨーロッパ内部にその生涯を封印したかのような印象を受ける。  彼女と彼の外的行動にではなく、思想や叙述に目を向けてみよう。シュタイナーは、名を明かさなかった導師の指導にしたがい、自然科学的な考え方を意識的に身につけ、学者としての知的訓練を積んだ。その上で、霊的事柄を、近代人にふさわしく首尾一貫した論理的思考によって照らし出すよう努めた。他の思想家の引用をするときは、かつてフィヒテの『知識学』を自分なりに全文書きあらためたように、いったん自分の言葉に消化してから、自分の論理展開の中に組み込んだ。  これに対しブラヴァツキーは、アカデミズムとは無縁な暮らしの中で自己形成し、はじめから霊的な直観を直接語り、霊的な導師の名前も公言し、さらにみずからの著述を導師から受けとった霊感として著している。  ブラヴァツキーの論述形式は、明らかに学問的とは言い難い。彼女は引用を多用する。ヒンドゥー教の聖典から、ヴェーダ哲学から、仏教経典から、聖書やユダヤ聖典から、さらにはアメリカ先住民の口承文学や、エジプト神話、そうかと思うと最新のベストセラー等々、ありとあらゆるところから固有の概念とイメージを取り込んでは、自分の言わんとする文脈に織り込んでいく。ほとんど錦織の世界である。  それゆえブラヴァツキーの著作は、剽窃の寄せ集めだとか、非論理的だとか、そもそも本人の頭が混乱しているのだとか、種々に批判された。確かに、批判的に比較すれば、シュタイナーの文体と対極的である。けれどもこの対極性もまた、同一の認識から発しているのだ。両者はともに、その語り口をとおして、近代的な思考のあり方に、本質的な揺さぶりをかけているのである。  シュタイナーは、論理的思考を首尾一貫させることによって、それ自身が唯物論に満足してはいられなくなる地点にまでいたらせようとした。その思想形成のあり方は、彼の外的な人生の歩みと同じく、ヨーロッパ内部に根ざしたところから、自己変革を希求しつつ、練り上げられている。  ブラヴァツキーはどうか。彼女の主著『シークレット・ドクトリン』で、めまいがするほど多用されている引用の中には、欧米の植民地学者が、アカデミズムの名によって、支配地域から採集・発掘してきた伝統的思想がちりばめられている。この点に注目すべきだ。  一九世紀、欧米の学者たちは、知的探求心とアカデミックな野心、経済的欲望にも突き動かされて、世界のあらゆる場所へと出かけていき、そこで現地の固有文化を研究した。その研究の成果は、学者個人の良心は別として、植民地支配の道具とされたのである。  それは、はじめからバイアスのかかった研究だった。白人の優越感と、現地文化に対する蔑視と無理解、キリスト教的観点からする邪教視等々——それが、学者の中で無自覚なままなら、学問の客観性など望むべくもない。既存の差別と偏見をいっそう助長し、さらにはそれを学問的に根拠づけ、結局、植民地支配の正当化を擁護するにいたった。このことは、エドワード・サイードのオリエンタリズム批判などに明らかである。  その研究によってヨーロッパの大学で学位を得、栄誉に輝く白人がいる一方で、その学問を学ぶことによって、自分たちは人種的に劣っているのだと思い込まされ、自分たちの伝統文化を心から軽蔑するようになり、洗礼を受けてクリスチャンになってしまう、褐色の肌をもったエリートがいる。やがてそのエリートが、同胞に対する抑圧者として、植民地支配の中間層を支えたのだ。これはアカデミズムの精神的な犯罪である。  ブラヴァツキーは、これを逆手に取って告発した。彼女は、植民地学の諸成果を逆手にとり、その明らかな誤りを指摘し、それらを自分の論述の中に取り込むことによって、植民地主義を正当化する論理であったものを、植民地からの解放闘争の道具にしてみせたのである。彼女は混乱などしていない。むしろ混乱しているのは、彼女のこの明確な意図に気づかずに、その著書の字面だけを追いかける人である。 †闘いの継承[#「†闘いの継承」はゴシック体]  シュタイナーが、ブロックドルフ邸の「神智学文庫」に招かれたとき、彼はまだブラヴァツキーの本当の姿を知らなかった。彼が知っていたのは、古めかしい秘密主義に拘泥《こうでい》する者、心霊術に熱を上げる者、そして異国趣味ふうな古代異教文化へのあこがれから神智学的おしゃべりに余念のない者たちであった。  シュタイナーはそうした現状を批判的にふまえ、本来の自分たちの課題とは何であるかを人々の魂に呼び覚まそうとして、ドイツ神秘主義の霊性と秘儀の変革としてのキリスト教の講演を行った。シュタイナーが提示した彼自身の課題は、ブラヴァツキーが一生かけてやろうとした仕事を、ヨーロッパの一翼において[#「ヨーロッパの一翼において」に傍点]、継承するものであった。  やがてブラヴァツキーの著作に本格的に取り組むようになったシュタイナーが、そこに見出したものは、心を震撼させられる先駆者の姿であった。  シュタイナーはブラヴァツキーという存在の大きさに圧倒される。彼女を理解するために、どれほどの時間がかかるか、誰にもわからないほどだと思う。だからまた彼女が、信じられないほどの誹謗中傷の中を、身をさらして生き通さなければならなかったのは、一つの必然であり、彼女はきっとそのことを自覚しつつ、耐え抜いたにちがいない。シュタイナーは、ブラヴァツキーに追悼文を捧げた。 [#ここから2字下げ]  本当に彼女の使命を深く感じ取ることができた人にとっては、そのとき自分がわれわれの偉大なこの先駆者に対してどのような態度をとるべきかが、そこから、この認識から、流れてくる。そのときにはまた、このような役割を背負った人物が、必然的に、はじめは誤解を、否、誹謗や中傷さえをも甘受せざるをえないのだ、という洞察をも学ぶのだ。誤解や中傷はこのような人物が人生に捧げなければならない供犠のひとつなのである。   ——『ブラヴァツキー没後十四回忌のために』一九〇五年五月八日。(高橋巖著「神智学の系譜」所収) [#ここで字下げ終わり]  ブラヴァツキーに献じたシュタイナーのこの言葉は、彼女に対するシュタイナー自身の覚悟の表明でもある。  ブラヴァツキーは、植民地の霊性復興運動に身を捧げた。インドは、地理的にはヨーロッパの外部にあるが、現実にはそのとき、大英帝国の底辺に位置していた。ブラヴァツキーは、いわばヨーロッパの外部に疎外されると同時にヨーロッパの内部に組み伏せられたヨーロッパの最底辺から、近代ヨーロッパに対する霊的告発のマグマを吹き上げ、集中砲火を浴びて、一八九一年、満身創痍のうちに息絶えたのである。  一九〇二年一〇月一九日、シュタイナーは、ベルリンで新たに設立された神智学協会ドイツ支部の事務総長に就任する(四一歳)。シュタイナーは非常に意識的な態度で、ドイツにおける神智学運動の状況に臨んだ。そして、この運動だけが、自分の本来の課題を実現しうる場であると確信したのである。  神智学協会の信頼すべき先輩であるウィルヘルム・ヒュッベ=シュライデンに、シュタイナーは自分の覚悟をこう語っている。すなわち、神智学協会ドイツ支部という枠組みに与えるべき内実は、ドイツ精神文化のための運動[#「ドイツ精神文化のための運動」に傍点]であり、真にドイツ的な神智学[#「真にドイツ的な神智学」に傍点]を人々に伝えることなのだ、と(一九〇二年八月一六日付けおよび一〇月一三日付け書簡)。 [#改ページ]   第五章[#「第五章」はゴシック体]   ドイツ精神文化の霊学[#「ドイツ精神文化の霊学」はゴシック体]   純粋思考と帰依の感情[#「純粋思考と帰依の感情」はゴシック体] [#改ページ] †『神智学』——霊・魂・体の人間学[#「†『神智学』——霊・魂・体の人間学」はゴシック体]  シュタイナーが神智学者になり、しかも神智学協会のドイツ支部代表になったということは、かつて深い関わりをもった学問の世界と、『文芸雑誌』編集者時代の広範な人間関係とからの離別を意味した。シュタイナーの方から関係を絶ったのではない。神智学に関わるということそれ自体が、知識人としてのキャリアには命取りだった。だが、シュタイナーはふり返らなかった。取り組むべき課題が山積みされていたからだ。  支部設立と同時に、彼は雑誌『ルツィフェル』(後に『ルツィフェル=グノーシス』と改題)を創刊し、協会メンバーに対するベルリンでの集中的な講義を行うかたわら、主著の執筆に没頭した。『神智学』と『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』である。 『神智学』の冒頭、シュタイナーは、当然のごとくフィヒテを取り上げる。フィヒテが、「まったく新しい内的感覚器官」という言葉で予感していた、霊的なるものに対する知覚能力が、古代の隠された叡智の時代から、ドイツ精神史の精髄にまで流れ込んでいることを掲げることによって、シュタイナーは「霊的なるものについての学」をうち立てる出発点にしたのである。書簡で述べた「真にドイツ的な神智学」のスタートである。  彼は言う。霊的なものに関する叡智は、今、すべての人に向けて語られるのでなければならない。「なぜならどんな人の中にも[#「どんな人の中にも」に傍点]、真理に対する感情と理解力とが存在しているからである」(高橋巖訳 傍点原著者)。シュタイナーは、すべての人間の中に存在する真理に対する感情と思考力を信頼して、人間の本質について霊的直観が洞察する事柄を、いかなる宗教宗派の伝統にも属さない文体を用いて論述した。 「人間の本質」と題された最初の章では、八六九年のコンスタンティノポリス教会会議以来封印され続けてきた、人間の三分節論を述べる。人間は肉体と精神との二元的存在ではない。人間は「体」と「魂」と「霊」とからなる存在である。  人間における「体」とは、生命活動をいとなむ人体である。この人体組織を通して周囲の世界は、感覚的知覚像を人間に示す。眼前の花なら花を、その姿形、色合い、香りとして人間に現してくれるものが、「体」である。  人間における「魂」とは、花の姿形をとらえて、その知覚を、自分にとって喜ばしきものとして楽しむものであり、あるいはまた、花の棘にいじめられて痛いと感じ、こんな花なんか嫌いだ、と思うところのものである。  けれども人間における「霊」とは、知覚として「魂」のうちに現れたものを、ここちよいと思うか、痛いと感じるか、あるいは大嫌いと思うかといったことはいったん仮置きして、そもそもそれはいったい何であるのかと問い、眼前の対象それ自体を、考えることを通して認識しようとするときに、人間に開かれてくる世界のことである。  このとき開かれる対象についての思考内容は、「魂」の中に現れるのであるが、それは「魂」についての何かではなく、対象そのものについての何かである。 [#2字下げ] 人間は星空を見上げる。魂が受ける感動はその人間のものだ。しかし彼が思想として霊において把握する星々の諸法則は、彼にではなく、星々自身に属している。 [#地付き]——『神智学』  そう言うと反論が起こる。——星々を動かしている諸法則は、自然科学によって探究され、法則として言語化されたものである。それを霊的な何かだと言うのは、恣意的な言い換えにすぎないではないか、と。  言語化された自然法則と、それを言語化した魂の活動そのもとを混同してはならない。自然科学は法則を見出し、それを記述し、そして記述されたこの法則こそが、天体運動の本質だ、と主張するが、はたしてそうか。シュタイナーが、人間における霊と述べたのは、「思想として霊において把握する星々の諸法則[#「思想として霊において把握する星々の諸法則」に傍点]」であって、法則として言語において記述された星々の諸法則ではないのである。  言語化された諸法則は、なるほど星々についての[#「についての」に傍点]自然科学的な記述ではあるが、その記述が「星々自身に属して」いるわけではない。それは、人間が手にするペーパーや、学術論文に属している。けれども、人間が、集中的な思考を通して直観的につかみ取ったその諸法則は、現実に星々を動かしている力なのである。  結晶体を例にとろう。ある結晶体を前にして、人がその構造、成分、結合力、融点等々を調べるとしよう。そしてその人が、その結晶体の分子式を解明する。分子式は、その結晶体についての自然科学的な記述ではあるが、文字で記されたその分子式が、結晶化を実現する力なのではない。結晶を促す力そのものは、記号として記されたノート上の分子式とはまったく別な次元で、現実的な力として存在している。シュタイナーが、「思想として霊において把握する星々の諸法則[#「思想として霊において把握する星々の諸法則」に傍点]」と言うとき、結晶体を結晶化させている現実的な力のことを指しているのである。  逆の言い方もできる。いったいどのような力が、その結晶体について思考する人間の中に、一つの分子式を結晶化させるのか、と。これは、同じ一つの現実を、別な側面から言い換えたものである。  結晶体を結晶化させている現実的な力が、その結晶体について思考する人間の内部でいったん溶けて、結晶化の力そのものがその人間の内部に解放され、浸透し、その果てに、ふたたびその人間の内部に、一つの分子式を、再結晶させているのである。  ただその際、結晶体を結晶化させている力の大半が、思考する人間にとっては意識できないために、その力を人間の内部でふたたび結晶化させるときに、その百億分の一ほどしか用いることができないから、分子式のような、記号化され、抽象化された、元の結晶体とは似ても似つかぬ、陽炎《かげろう》みたいな思考像しか結べないだけである。  もしも私たちが、思考力の純度を高めて、結晶体を結晶化させている力の総体を、完全に意識化させることができるなら、そのとき、結晶体について考える私たちの思考は、現実に、もう一つの結晶体を結晶化させるだろう[#「もう一つの結晶体を結晶化させるだろう」に傍点]。聖書の創世記に言う、「光あれ」とは、そのような思考である。 †『神智学』の如来蔵思想[#「†『神智学』の如来蔵思想」はゴシック体] 『神智学』は、かつては宗教的象徴や儀式の中で伝授された霊的なものについての体験を、誰もが用いることのできる思考力でもって、可能な限り認識しようとする試みに満ちている。「霊の再生と運命」と題された章では、運命あるいは業《ごう》(カルマ)と呼ばれるものと、輪廻転生とが、思考によって探究される。  人が内面に保持する記憶は、何らかのきっかけに応じて、心の表面にふたたび浮かび上がってくる。それと同じように、自分の外なる世界に保持されていた自分に縁ある何かが、あるきっかけに応じて、外から自分に立ち向かってくることがある、と考えられないだろうか。シュタイナーはそう問いかけることで、読者を運命に対する認識へ導こうとする。  また科学は、生物が遺伝の法則によって、種《しゆ》に固有な生命形態を、個体から個体へ受け継いでいくことを明らかにしているが、人間が、一人ひとりで固有の種であると考えるなら、一回の人生を越えて、「私」という個体から次の「私」という個体へと、輪廻転生を通して継承されていく霊的遺伝が、考えられないだろうか。  カルマと輪廻転生という二つの仮定命題を示し、読者とともに考えていくことによって、シュタイナーは、過酷な運命に対する認識の防具と、たとえどのような自分であれ、それを引き受けて生きるのは「私」なのだという、自己自身に対する倫理基盤とを備えようとした。  そして、霊・魂・体の三重の存在である人間が、自分の外に広がる物質の世界、魂の世界、そして霊の世界に対して、どのような関係にあるのか、そこで作用する法則とはどのようなものであるのかを、次の「三つの世界」と題された章の中で詳述した後、『神智学』は、最終章「認識の小道」において、以上述べてきた霊学上の認識を、どうしたら自分で獲得できるか、そのもっとも基本的な心構えを説くのである。 「認識の小道」においてもまた、すべての人間に向けて霊学を語らなければならない、というシュタイナーの自覚が、前面に押し出されている。 [#2字下げ] いかなる[#「いかなる」に傍点]人も、本書に述べられている霊学的認識内容を、自分で獲得することができる。この著書の論述の仕方は、高次の世界の思考像を提供するために試みられている。みずから見霊能力を獲得するための第一歩[#「第一歩」に傍点]は、このような思考像を把握することにあるのだ。なぜなら、人間は思考存在なのであって、思考から出発するときにのみ、自分の歩む認識の小道を自分で見つけ出すことができるからである。 [#地付き]——同著(傍点原著者)  シュタイナーは、霊学の書を読む体験を通して、読者に、霊的な事柄に関する思考像を提供しようとする。思考像の中には、生きた力が存在している。記述された内容を、ただ漠然と読むのではなく、読者が自分の思考力を働かせながら、書かれてある内容の中に入っていくとき、シュタイナーがそれを書いたときに働かせていた思考力と同質の力が、読者の中に解き放たれて、読書体験が、霊的体験の萌芽となるのである。著書という思考の結晶体を、思考力を用いて読み解くことで、読者の中に、その著書を結晶化させた結晶力が、解放されるのだ。  霊学の書を読むことは、信仰のように、誰かが見出した神を信じるのとはわけがちがう。シュタイナーは、自分の書いたことを真理として信じる必要などまったくないと断言する。信じるのではなく、それについて考えてほしいと言う。シュタイナーが形作った思考像を、思考を通して自分の中に再構成してみること、そのことだけをシュタイナーは求める。  なぜなら、霊的な事柄に関する認識は、すべての人間の魂の根底にすでに存在しており、その認識を、自分で考えることを通して、自分の中に甦らせることが、決定的に重要だと、シュタイナーは考えるからである。言うまでもなくこの確信の背景には、西方の如来蔵思想がある。  シュタイナーは如来蔵思想に根ざして、個々人の内部に存在する智慧を、その人自身が、自分で、内から目覚めさせることができる、と言うのである。目指すべきは本覚《ほんがく》なのだ。シュタイナーが提示する思考像は、個的な本覚のための呼び水なのである。 †思考にかたよりすぎなのか?[#「†思考にかたよりすぎなのか?」はゴシック体]  ところで、シュタイナーの著作に挑戦した人から、「むずかしすぎる」という感想をよく聞く。「読もうと思っても、読みはじめるとたちまち眠くなってしまう」とか、「あんまり思考を強調されると、ついていけない」と言うのである。  シュタイナー批判の中にも、過度な思考の強調に対する警告がかなりある。その批判を要約すれば、「考える作業というのは、自我の懸命な働きだから、結局、エゴを強めてしまうだけだ」とか、「近代的な主知主義のオカルト・ヴァージョンだ」などである。  シュタイナーが生きていた時代にも、そうした感想や批判はあった。けれども彼はひるむどころか、ますます思考の重要性を強調してやまなかった。「認識の小道」にこうある。 [#2字下げ] 高次の認識能力を獲得しようとするとき、真剣な思考作業を自分に課すことがいかに大切なことか、どれ程強調してもし過ぎることはない。今日「見者」になりたいと願う多くの人が、まさにこの真剣で禁欲的な思考作業をいい加減にしているので、この点を強調することがますます必要になっている。 [#地付き]——同著  思考像を形作るという、ある意味では回り道を行くことなく、直接、霊的な体験を得ることだってもちろん可能である。伝統宗教の多くは、思考力を援用しながらも、聖なるものとの接触に際しては、思考以外のさまざまな諸力を用いてきた。  たとえば、礼拝対象へ向けて蓄積される帰依の心情、読経や聖句の朗唱による身体の共鳴、荘厳された聖堂が醸成する場の磁力、長期にわたる心身の清浄などがそうであり、それらすべての総和の中で、瞑想や観想、祈祷が行われ、人は聖なるものの恩寵に触れる。これが霊的体験の一種であることは明らかである。「認識の小道」だけが道なのではない。  伝統宗教におけるさまざまな修行法のうち、身体に対して直接作用力を有するものだけを抽出し、それ以外の要素を、とりわけ自分で考える要素を削ぎ取ったとしたら、おそらく人は、もっとも短期間のうちにかなり強烈な体験を得るであろう。麻原彰晃が初期の段階で、側近となる弟子たちに行《ぎよう》じたのがこれである。しかも彼の元に参じた人々は、霊的体験そのものを求めていた。師と弟子の欲求が合致したところに、道場が開かれた。  ところが、彼・彼女らに生じたのは、霊的体験というよりは、異常な知覚体験の一種であった。なのに彼・彼女らは、それを自分たちが求めていたものだと信じた。なぜなら、異常な知覚体験の中でまっとうな思考力をあらかじめ剥奪された上で、これが霊的体験だと、その思考の剥奪者から教え込まれたからである。  彼・彼女らは、麻原の被害者ではない。「帰依」と称し、みずからの思考を放棄して、考える主体を麻原に預けたそのことが、自我の尊厳を侵している。霊的体験を非日常的な知覚体験の中に欲したそのことに、日常の現実に耐えようとしない脆弱な自我の卑怯な逃避がある。犯罪に手を染めていなくても、その罪科は自分で負うしかない。  オウム真理教のことはさておき、では、近代主知主義の産物である高度学歴社会の「勝ち組」はどうかというと、高級官僚と政界の重鎮、トップ企業のリーダーたちが、どのような思考をめぐらしたか、金融財政危機が現出した今日の状況を、考えてみるとよい。  また、「勝ち組」以外の大半の人々はどうかというと、あらゆる種類の「癒し」を求めて、思考力を萎えさせている。チャネリングからポジティヴ・シンキング、アロマセラピーからカウンセリングまで。  おおかたそこで流通する言説はここちよく(だって癒されたいんだもん)、誰にでも簡単に理解できるやさしい言葉で(だって癒されたいんだもん)、読んだり聞いたりするだけですぐに心から納得できる内容になっている。当たり前だ。彼・彼女らには、気前よく支払ってもらわなきゃならないんだから[#「気前よく支払ってもらわなきゃならないんだから」に傍点]。  はたして、シュタイナーが思考を強調しすぎなのだろうか。それとも私たちが、人生のあらゆる局面において、真剣な思考を、なおざりにしすぎなのだろうか。 「認識の小道」をとるか、他の道を行くかは、一人ひとりが自分で判断し、決めたらいいことだと私は思う。シュタイナーの指し示す道だけがすべてではない。ただその際にも人は、どの道を行こうかと、まず考える。やはり思考は大切なのだ。そのことを再認識するためにも、『神智学』は、もっともふさわしい思考力のトレーナーである。  シュタイナーは、霊的な体験を得る前に、それについて記述された内容を、自分の思考力で把握しておくことが大切だ、と強調した。なぜか。  泳ぎをおぼえる前に、海に飛び込む者はいない。準備体操をして心身の状態をととのえ、誰か泳げる人に教えてもらいながら、浅瀬やプールで練習し、そのあとで、波のおだやかな、立つことのできる場所を選んで、そっと泳ぎはじめるものだ。霊学による学習も同じである。 「そんなまだるっこしいのは嫌いだ、私は海と一つになりたいんだ」、と言って海に飛び込む人を、誰もとめることはできないが、生きて浮かび上がれる保証はどこにもない。海を知っている人なら、そんなやり方をすすめはしない。  いつの日か、遠く大洋まで泳いでいけること、さらには深海に潜って、今まで見たことのない優美な魚や貝を目の当たりにできること、それを楽しみにしながら、『神智学』の認識プールでバタ足練習を積むのも悪くはあるまい。  いずれにせよ、シュタイナーにとって霊学は、ドイツ精神文化がもたらした最高度の精華の中に生み落とされるべき種であった。思考の強調は、彼がみずから定めたこの場の必然なのである。思考の強調に戸惑うよりむしろ、認識の小道を通って、霊的世界のどんなに清澄な領域へ進むことができるか、自分もまた思考する存在の一人として、試してみるべきだろう。 †修行の核心[#「†修行の核心」はゴシック体] 『神智学』の執筆・出版に引き続いて、ただちにシュタイナーは、雑誌『ルツィフェル=グノーシス』に、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』の連載を開始した。『神智学』で人間存在と世界の本質を語ったシュタイナーは、次にこのタイトルが示す通り、修行法それ自体の公開に踏み切った。  古来、オカルティックな伝統の中では、本著で紹介されている修行法はすべて、師から弟子への秘伝であった。修行は個人的な伝授によるものとされた。それを公開する以上、本著には特別な配慮が必要であった。  秘密の伝授を書物の形で一般に公開するということは、師と弟子という、霊的伝統の中でもっとも美しく、同時にもっとも醜い関係に、そしてまたもっとも強靱で、同時にもっとも壊れやすい関係に、根本的な変化をもたらさずにはいないからだ。その変化の責任を、シュタイナーは自覚していた。 [#ここから2字下げ]  この書物は著者と読者との間に交わされる個人的な対話のようなものとして受け取られることを望んでいる。「神秘道の修行者は個人的な伝授を必要とする」と書かれてはいるが、このことは書物そのものがこのような個人的伝授なのだという意味に解釈されねばならない。   ——『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(「第八版のあとがき」高橋巖訳) [#ここで字下げ終わり] 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』は、一言で言って、感情の自己教育の書である。そこに書かれている修行法は、自分の中に一定の感情を育てるべく、記述されている。『神智学』が徹底して思考を強調したのとは、好対照をなしている。そこでもっとも強調されている感情は、帰依の感情、畏敬の念である。 [#2字下げ] 道の発端をなすのは魂の或る基調でなければならない。この基調は神秘学者によって、真理と認識への畏敬、礼賛の小道[#「礼賛の小道」に傍点]と呼ばれている。 [#地付き]——同著(傍点原著者)  なぜ畏敬のような感情を、自己育成しなければならないか。それはかつて、師と弟子との直接的な人間関係の中ではぐくまれてきた感情だからだ。それを読者は、本著の読書体験を通して、自分の中に生み出さなければならない。  かつては弟子の眼前に、心から尊敬の念を捧げずにはいられない師がいた。弟子の修行の階梯は、師への尊敬とあこがれに支えられてきた。行の途上における不安と恐れは、師という実在の人間がしずめてくれ、次なる指針を与えてくれた。  もちろんその一方で、師と弟子の関係は、一歩間違えば支配と服従のそれへと転落した。霊的な権威は、容易に権力支配の道具となる。弟子は自己決定能力を放棄して、身も心も師に投げ出し、奴隷となる。歴史上、実例にはこと欠かない。  しかし、そうであるにしても、伝統的霊性の中で畏敬の念は、きわめて高度な価値を付与され続けてきた。洋の東西を問わない。帰依は、霊的な道における入門であり、中門であり、成就の門である。 †社会的要請としての行[#「†社会的要請としての行」はゴシック体]  ところが、現代人はどうだろう。現代人の魂の基調は、畏敬ではなく、不敬であり、礼賛の小道ではなく、批判の大道である。  私たちが人と向き合うとき、意識が常に追うのは、相手のすぐれた点であるよりも欠点である。面と向き合ってそれが見つけられないとき、私たちは裏から手を回したり、足元を探ったりしてでも、それを手に入れようとする。利害がからもうものなら、虚偽も辞さない。相手を批判し、自分を優位に保つこと、それが現代人の基本的な社会感覚である。  そんな人間に向けて、畏敬の念をもて、と言うのは、修行者ばかりの僧院で恭順の態度に徹せよ、と要求することより、はるかに困難な道かもしれない。  そこでありがちなのは、そんな現代人が『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』を読んで、「そうか、自分も霊的直観を得るためには、畏敬の念を育てなきゃいけないんだ」とにわかに回心して、その実、心から尊敬などしてもいない人の前で、形だけ慇懃《いんぎん》に、畏敬の念らしき臭気をふんぷんと撒き散らしてみせる、偽善者の態度である。  シュタイナーが要求したのは、そんなことではない。『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』は、明るい社会を作る運動のパンフレットではないのである。畏敬の念をすぐにでも社会的な実践に移せ、というのではなく、まず第一に、畏敬の念という感情を育てる場を、思考の力によって魂の中に作ろうと努力することが大切なのだ。 [#2字下げ] まず第一に畏敬の念を思想生活の中に受け容れること、それが神秘学徒の出発点である。自分の意識の中にある不遜な、破廉恥な思考内容や軽蔑的な批判の傾向によく留意し、まさに畏敬という思考内容を育てることから始めなければならない。 [#地付き]——同著  シュタイナーの行法の核心は、思考が感情を導く、という点である。道徳規範をただちに社会実践したりすることが、行なのではない。誰かに気づいてもらい、褒めてもらうような行為が、行なのではない。善行をなせ、というのではないのである。 「畏敬という思考内容を育てる」とは、魂の中で目覚めているように、ということだ。他者に対して容赦ない批判的観点が自分の内部でわき上がる瞬間を、はっきりとらえること。そのような鋭敏かつ繊細な思考の振る舞いが、畏敬の念のための土壌を、魂の中に開拓するのである。だから、目覚めた思考が、高貴な心情の先達とならねばならない。  これが『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』に書かれた修行法の核心部分だと、私は思う。思考が感情を導くという原則に沿って、これまで秘伝とされてきた行を公開することによって、シュタイナーは、もっとも高貴な心情である畏敬の念を、師弟間の閉じた関係性から、自由と友愛に基づく社会的人間関係を作り出していくための魂の基盤にしようとしたのである。伝統的霊性の中に保持されてきた修行法は、今、そのためにこそ開示されるべきなのである。  だから、修行の目的は、見霊能力の獲得それ自体ではない。そのような能力は、社会的な人間関係の中に、生かされるのでなければならない。すなわち、いつもで[#「いつもで」に傍点]、ためらうことなく[#「ためらうことなく」に傍点]、他者の尊厳を守ること[#「他者の尊厳を守ること」に傍点]。自己の尊厳が守られるべきなのは、魂の中の目覚めた思考によって、自己が一人の他者であるかのように客体化されたときである。  このように、本著は、新しい社会建設のための魂の書として著されている。だからシュタイナーはのちに、この書を、ヴァルドルフ教育にたずさわろうとした人々にも、社会運動に関わろうとした人々にも、医学や農業部門で仕事をしようとした人々にも、繰り返し、何度でも、精読してくれるよう願ってやまなかった。あなたの魂がまず、本著の意味で真に社会化されるのでない限り、あなたの求める社会はどこにも実現しないのだ、と。 †師としての純粋思考[#「†師としての純粋思考」はゴシック体] 「しかし、結局のところ、その本を師の代わりにしているのだから、やはりシュタイナーを師としていることになるのではないか」という意見もあろう。ある意味ではそうかも知れない。  人生の途上で立ち迷ったとき、この書が支えになったことが何度かあった。そのとき私は、この書が、人格をおびて私をつつみ、黄昏の湖畔に立つ古木のように感じられたことがあった。それは、ある意味で、シュタイナーという存在に投影された、私の師のイメージだったろう。  けれども、思うのは、あれもまた、私が本著との個人的な対話を通して、自分で造形してきた理念的なイメージの一つだということだ。私は今、そのような一切の人格的イメージを払拭して、本著に向き合っている。そして、そのように読めば読むほど、本著が、まさにそのために書かれている[#「そのために書かれている」に傍点]ことに気づいて、あらためて驚くのだ。 「第八版のあとがき」で、シュタイナーは言う。人間には、肉体の影響からまったく自由な純粋思考が可能である。純粋思考の中では、知覚像に類する一切のイメージは排除される、と。 [#2字下げ] このような[#「このような」に傍点]思考は、自己自身で、自己の存在だけを通して、みずからが霊的=超感覚的な本質存在であることを明示する。そして一切の知覚活動、記憶その他の魂的活動を排除しつつ、魂がこの純粋思考だけと結びつくとき、魂は自分がこの思考とともに超感覚的領域の中にあることを悟る。それは肉体外での魂の自己体験である。 [#地付き]——同著(傍点原著者)  私たちが自分の思考を働かせつつ、この書を読み込めば読み込むほど、筆者であるシュタイナーの人格は背後に退く。「人智学」という、特定の思想名称すら姿を消す。そして、意識の虚空に立ち現れるのは、考え抜かれた言葉によって造形された、思考の結晶体それ自身なのである。  だから、先の問いに答えておこう。シュタイナーが師なのではないし、この書が師なのでもない。師は、あなたが自分で作り出す純粋思考の中にある、と。  ただし、そのような純粋思考体験のあとで、ここちよい疲労感とともにあらためて本著をふり返るとき、今し方自分が読み終えたばかりの一節を一世紀ほど前に書き終えたばかりのシュタイナーと出会うことは、あり得ることである。もしも、充実した思考体験の余熱の中に、彼のついやした思考が打ち寄せる波のように肌で感じられたなら、それを彼からの時を超えた贈り物として、そっと受けとめれば、それでよいのである。 [#2字下げ] 高次の知識を得るために必要なのは人間崇拝ではなく[#「なく」に傍点]、真理[#「真理」に傍点]と認識[#「認識」に傍点]に対する畏敬である。 [#地付き]——同著(傍点原著者) †神智学協会からの分離独立[#「†神智学協会からの分離独立」はゴシック体]  さて、シュタイナーの執筆活動と講演は、多くの人を惹きつけた。一九〇六年からは、ベルリン以外の都市でも講演が行われ、ドイツにおけるシュタイナーの活動は確実に軌道に乗っていった。  一方、神智学協会は、ブラヴァツキー亡き後、代表となったアニー・ベサント(一八四七—一九三三年)によって率いられていた。ベサントはイギリスの社会運動家であり、とりわけ女性差別に対する戦闘的な闘士として有名だったが、ブラヴァツキーと出会って以降、神智学協会の活動家となっていた。  一九〇九年、ベサントは神智学協会の本部があったインドのアディヤールで、一四歳のインド人少年と出会う。ジッディ・クリシュナムルティ(一八九五—一九八六年)である。少年の父が協会のメンバーであった。  クリシュナムルティの中に、将来、人類の指導者となる可能性を見たベサントは、父親の許可を得て少年を養子にし、イギリスに連れ帰って、世界的教師とするための教育を施すことにした。そして一九一一年、神智学協会の中に、クリシュナムルティを代表と仰ぐ「東方の星」という教団を作り、この少年はキリストの再来だ、と宣言したのである。  キリスト存在がふたたび人間に受肉する、という教義を、シュタイナーは受け容れることができなかった。それどころか、一人の少年をキリストの再来として崇めるよう要求するということは、シュタイナーが以前から批判してきた心霊術的な頽廃以外の何ものでもないと思えた。  シュタイナーと考えを同じくする神智学協会ドイツ支部の多くのメンバーは、結局、ベサントによって協会から除名される。一九一三年のことである。そしてシュタイナーは、神智学協会と袂を分かち、友人らとともに新たに人智学協会を設立した。神智学 Theosophy すなわち「神の叡智の学」から、人智学 Anthroposophy すなわち「人間の叡智の学」への転換であった。  さて、私は今、一連の事実だけを述べた。多くの人智学文献は、神智学協会から人智学協会への分離独立を、シュタイナーのキリスト観に基づいて論じている。クリシュナムルティはキリストの再来である、という教義が、シュタイナーのキリスト観とはまったく相容れなかった、というのである。私もその通りだと思うし、この分離独立の原因は何かと言えば、まさにこの点にあったと言ってよい。  しかし、事を一度、ベサントの側から見たらどうであろうか。ブラヴァツキーの意図は、世界のさまざまな諸宗教の霊性を探究することによって、たとえばインド人の霊性復興運動を担うことであった。ベサントはその衣鉢《えはつ》を継いでいる。  ベサントがクリシュナムルティのことをキリストの再来だと言ったのは、ヨーロッパ人に対してであって、インド人や他のアジア人に対しては、弥勒あるいは菩薩の化身だと述べている。  成人してから以降、クリシュナムルティは瞑想の修行を積み、幾度か襲った内面の危機を克服し、霊的指導者として成長していった。彼はアメリカに渡り、講演活動や著述活動を通して、多くの信奉者を獲得していく。「東方の星」は次第に大きな組織へと育っていった。  そして、その勢力がもっとも華々しい時期を迎えたとき、一九二九年、彼は「真理への道は、道なき大地である」という言葉を残して、「東方の星」をみずから解散し、神智学協会からも脱会して、単独者になったのである。ベサントはこの解散に立ち会っている。そのベサントは、晩年インド独立運動に挺身《ていしん》し、一九一七年には、インド国民会議の議長にもなっている。 †それぞれの道へ[#「†それぞれの道へ」はゴシック体]  たしかに、クリシュナムルティをキリストの再来だと宣言したのは、ベサントの過剰な思い入れだろう。シュタイナーが敏感に反応せざるを得なかったのも当然である。けれども私はそこに、人間ベサントの一徹な情の濃さを見る。  イギリスの因習に凝り固まった社会の中で、とりわけ性差別に対する憤りから社会活動をはじめた彼女は、人種差別、植民地主義といった社会矛盾に対する根本解決を求めて、ブラヴァツキーの遺志を継いだ。彼女の強烈な個性と行動主義が、多くの軋轢《あつれき》を生んだのも事実である。  けれども、名もなきインド人少年を、ある日突然、指導者としてイギリス人に受け容れさせるというのは、白人の無意識的な優越感に対する、彼女らしいショック療法とも言える。有色人種を召使いとしてしたがえていた人々の真ん中で、彼女はそれをやってみせたのだ。今の時代感覚から言えば露骨すぎて、かえって差別的に映るが、二〇世紀初頭のロンドンでは、鮮烈な効果をもっただろう。ベサントは協会員に対し、目に見える具体的な形で揺さぶりをかけたのである。ベサントからすれば、篩《ふるい》にかけられたのはシュタイナーの方であった。  また、その後クリシュナムルティが、一九八六年に亡くなるまで、欧米のみならず世界に果たした精神的役割には多大なものがある。自己と時代を見つめる彼の透徹した眼差しは、六〇年代以降、多くの若者に貴重な精神の糧を与えた。著書『自我の終焉——絶対自由への道』(邦訳出版一九八〇年)以来の一愛読者として、私は、彼のことを広義の意味で菩薩の化身と呼ぶことに、抵抗を感じない一人である。わずか一四歳の少年の中に、そのすぐれた資質を見抜いたベサントの目は、狂っていなかったと言わねばなるまい。  むろん、その後のクリシュナムルティのことは、シュタイナーの知るところではない。クリシュナムルティが単独者となったとき、シュタイナーはすでにこの世の人ではなかった。けれども私たちは、二人の著作を読むことができる時代に生きている。歴史上、まったく出会うことのなかった二人の思想を併読するとき、あたかも共通の源泉から流れ出てきた二つの支流のように読めるのは、私一人の錯覚ではなかろう。  視点をシュタイナーに戻そう。いずれにせよ彼にとってクリシュナムルティのことは、本質的な問題ではなかった。彼には彼の仕事があった。ドイツ精神文化の基盤に、霊学を樹立するという課題である。そしてこの課題そのものが、アニー・ベサントの路線とは異なっていたのだ。だからこの分離独立は、是非の問題ではない。ベサントとシュタイナーが、それぞれの内的必然にしたがって生きた証である。  しかしながら、この問題を考えるとき、私たちは視野を大きく、深くとる必要がある。神智学協会から人智学協会へという転換は、クリシュナムルティをめぐるキリスト解釈だけが問題の本質をなしていたのではない。そこにはもっと根深い問題があった。そしてこの問題は、ヨーロッパを激震させる出来事に通じていた。——世界大戦である。 [#改ページ]   第六章[#「第六章」はゴシック体]   戦争と廃墟の中で[#「戦争と廃墟の中で」はゴシック体]   「国民」になる以外、生きる道はないのか![#「「国民」になる以外、生きる道はないのか!」はゴシック体] [#改ページ] †ある対話[#「†ある対話」はゴシック体]  一九〇二年、神智学協会ドイツ支部が設立されたとき、アニー・ベサントがベルリンに来て立ち会った。その折り、ベサントとシュタイナーの間にかわされた短い対話を、十四年後の世界大戦のさなか、シュタイナーはある講演の中でふり返っている。  そのとき、シュタイナーは彼女にこう質問したのだ。「私たちは今、中部ヨーロッパでオカルト運動をはじめようとしています。中部ヨーロッパにおける精神生活の重要な出発点は、一九世紀初期にあると思います。これは時代の大きな変わり目であった、と言えないでしょうか」  シュタイナーの記憶によれば、ベサントはこう答えたという。「その頃ドイツに現れたのは、精神生活に関する抽象的で、概念的な形態です。それは人類にとっては役に立ちませんでした。けれども、そのあとでそれを純粋かつ高次なものにし、真に役立つものにまで発展させたのは、イングランドのグループです」  この対話を紹介したあと、シュタイナーは、こう続けている。「ベサントのこの発言に不快感をおぼえた人もいました。私はこの発言を忘れることができません。生涯、忘れないでしょう」(『東と西の間の中部ヨーロッパ』一九一六年三月一八日)  この講演は、イギリスとドイツとが現実に戦火を交えているさなか、ミュンヘンで行われている。とりようによっては、ナショナルな発言である。それにしても、神智学協会ドイツ支部設立のその日から、すでにベサントとシュタイナーの間で、これほど問題意識の乖離があったとしたら興味深い。世界大戦へいたる幾重ものうねりが、すでに一九〇二年の時点で、神智学運動の内部にも生じていたかのようである。  シュタイナーは、大戦の原因について、通常歴史が教えることとは別な側面を見ていた。彼の視座を紹介する前に、一般的な第一次世界大戦観をふり返っておこう。 †汎ゲルマン主義対汎スラヴ主義[#「†汎ゲルマン主義対汎スラヴ主義」はゴシック体]  一九一四年六月二八日、ボスニアのサラエヴォを訪れたオーストリア帝国の皇太子フランツ=フェルディナンドが、弱冠一九歳のセルビア人青年ガブリエル=プリンプチによって暗殺される。この青年は、南スラヴ地域からのオーストリア人の排斥と、同地域にセルビア人によるスラブ統一国家建設を主張する過激な秘密結社「ブラック・ハンド」のメンバーだった。 [#挿絵(img/fig2.jpg)]  バルカン半島をめぐるトルコ、オーストリア、そしてスラヴ系諸民族とロシアとの覇権争いは、一九世紀後半から、ヨーロッパ列強諸国の利害関係と複雑に絡みながら、幾多の戦争を生じさせていた。  サラエヴォ事件の直接的背景は、一九〇八年、トルコが青年トルコ党の蜂起によって国内問題に釘付けになったのにつけ込んで、オーストリアがボスニアとヘルツェゴヴィナの両州を併合したことが、両州を含めた大セルビア王国の実現を望んでいたセルビア人の怒りを買った点にある。  スラヴ系諸民族の統一国家を目指すセルビア王国およびその後ろ盾であるスラヴの盟主ロシアと、バルカン半島への影響力拡大をはかるオーストリアおよびその後ろ盾であるドイツ帝国との対立が、いわゆる「汎スラヴ主義」対「汎ゲルマン主義」となって先鋭化していたところへ、サラエヴォに銃声が響き、大戦への引き金となったのである。  当時、ヨーロッパ諸国の同盟関係は、イギリス、フランス、ロシアの三国同盟が、ドイツ、オーストリアの独墺同盟を包囲する形となっていた。サラエヴォ事件をきっかけに、当初はオーストリアとセルビアとの局地戦だったものが、あっという間にドイツ対ロシア・フランスの戦いになり、ドイツのベルギー侵攻を見たイギリスがドイツに宣戦して、ヨーロッパ大戦に突き進んだ。サラエヴォに銃声が響いてから、わずか四十日足らずのことであった。  この大戦の原因は帝国主義的利害の対立にある、というのが、もっとも一般的な理解だろう。イギリス、フランス、ロシア、さらにはアメリカを軸にした、列強諸国による植民地争奪戦に、新興ドイツ帝国は出遅れた。ドイツは一九世紀末から、産業の急激な成長にのって、バルカン半島からトルコ帝国へと強引な拡張政策を掲げ、軍備を増強していった。それが既存の国際秩序と衝突し、全面戦争を不可避なものにした、と言うのである。  今述べた歴史観は、まだしもニュートラルである。ドイツの敗戦で終わったこの戦争は、一九一九年のパリ講和会議とヴェルサイユ条約によって、ドイツに対し、非常に過酷な戦争責任を課した。敗者に対する懲罰的な断罪の背景には、一八七〇年のプロシア対フランスの戦争以来、新興ドイツ帝国に結びつけられてきた軍国主義のイメージがある。  さらにその後の歴史が、ナチス第三帝国の出現、二度目の世界大戦、ふたたびドイツの敗北へと続き、ニュルンベルク裁判で歴史的評価が下されたために、第一次大戦の原因論、ドイツの戦争責任論に関しては、さまざまなバイアスがかかってきた。  私は歴史の専門家ではないが、シュタイナーの第一次大戦をめぐるいくつかの講演に触れるまでは、ドイツに対して否定的な評価しかもっていなかった。戦後の教育を受けた世代としては、ビスマルク以来の軍事大国ドイツのイメージは、どうしたって分が悪い。強大な軍事力を背景に、よほどえげつない拡張路線をとったのだろう、だから戦争が起こったのだ、責任はやはりドイツにあるのでは——、というわけである。このイメージは、日本の近代史に対するネガティヴな評価と折り重なって、私の中に蓄積されてきた。  ドイツ人自身はどうかというと、第三帝国の問題は、ヒトラーによって引き起こされた特殊例外的な出来事として、ドイツ史の中では異化される傾向にあるので、逆にそれ以前のドイツ帝国時代の評価が、相対的にポジティヴなものになる。つまり、第一次大戦はやむをえない防衛戦争だった、と言うのである。イギリス、フランス、ロシアという大国に包囲された中、自国とオーストリアの権益を守るためには、戦争に打って出ざるを得なかった、あれは自衛のための戦争だった、と。 †「カードの家」[#「†「カードの家」」はゴシック体]  戦争責任を論じようとすれば、誰がどこで、どのような状況下で、戦争を決定したかが問題となる。宣戦布告の決定権が誰にあるかは、それぞれの国において憲法あるいは法律で決まっていたから、公文書上は明らかだ。しかし、本当に問題なのは、政策決定にたずさわった人々が、そのとき、どのような意識状態にあったかである。  第一次大戦の開戦状況を見るとき、主要参戦国の政策決定にたずさわった首脳たちのうちかなりの人が、まさか戦争にはなるまい、と思い込んでいたことに気づいて驚かされる。とりわけドイツではそうだった。  オーストリアがセルビアに最後通牒をつきつけてから、ヨーロッパ大戦の火蓋が切られるまで、わずか一週間。ドイツの政治は、「カードの家」に等しかった、とシュタイナーは述べている。トランプのカードでできた家のように、あっけなく崩れてしまったのだ、と。 [#ここから2字下げ]  一九一四年七月末から八月一日にかけて、ベルリンの政治的主要地区で何が起こったかを調査し、それを正確に抜き出してみれば、歴史の中でのドイツ帝国の悲劇的な運命が手に取るようにわかるであろう。この事情は、ドイツ国内でも国外でもまだあまり知られていない。当時のドイツ政治はカードの家のようなものだった。その政策は無に等しかった。だから戦争を開始すべきなのか、開始するにはどうしたらいいのかを決めるのに、いちいち軍部の判断を仰がねばならなかった。……七月末から八月一日にかけてのベルリンの諸情勢、特に七月三一日と八月一日に生じた事柄がすべて白日の下にさらけ出されたならば、そのすべての事柄が世界史上の一大珍事として世に広まることであろう。……今日、「戦争責任」を問うなら、この事実認識を避けて通ることは許されない。   ——『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』高橋巖訳 イザラ書房 [#ここで字下げ終わり]  この非常にきびしいシュタイナーの口調は、大戦のさなかに書かれており、今日でこそ、この間のベルリンの諸情勢はかなり明らかとなっているが、当時はまだ、おおやけにはなっていなかった。それをシュタイナーは、独自の人脈と、徹底した情勢分析を通して知っており、それゆえにこのような言い方ができたのである。  ではいったい、それはどのような「一大珍事」だったのか。戦争の愚かしさを知るためだけでなく、敗戦後シュタイナーが社会運動を起こさずにはいられなかった、中部ヨーロッパの絶望的状況を知るためにも、その悲劇をふり返っておこう。 †「誰にわかるものか」[#「†「誰にわかるものか」」はゴシック体]  サラエヴォ事件勃発直後、オーストリアから支援の要請を受けたドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、「もしもロシアが介入してきたとしても、ドイツの全面的支援を期待してよい」旨、回答を送った。しかし、このとき彼は、ロシアは動くはずがない、と踏んでいたし、フランスも戦争準備など整っていない、と信じていた。むしろ、ドイツが積極的な姿勢を見せた方が、いい牽制になる、と考えたのだ。サラエヴォ事件の非はセルビアにある、ここはひとつドイツの威信を示しておけばよいだろう、どうせ、戦争にはなるまい、と。そして皇帝は、ノルウェーへ遊びに出かけてしまった。  ドイツ皇帝の全面支持を取り付けたオーストリアは俄然勢いづき、この際、徹底的にセルビアを叩くべきだ、という意見が大勢を占め、その結果、セルビアへの要求は、いきなり最後通牒となった。  七月二二日、セルビアに対するオーストリアの最後通牒の内容を知ったドイツ政府首脳は、あまりの強硬さに驚いた。しかも、具合の悪いことに、在ベルリンのイギリス、フランス、ロシア大使に対して、オーストリアのセルビアへの要求は穏健妥当なものになるだろう、などという声明を出したばかりだった。  一方でそんなことを言っておいて、その実、最後通牒が突きつけられれば、誰だって、うしろでドイツが何ごとかたくらんでいると思うに決まっている。それにもかかわらず、ドイツの宰相ベートマンも外務大臣ヤゴーも、何の手も打たなかった。ベートマンは田舎に引っ込んで執務をとり、ヤゴーは、あろうことかスイスで新婚旅行の最中だったのだ。帝都ベルリンにはこのとき、軍人しかいなかった。  七月二八日、オーストリアはセルビアに宣戦布告、バルカンで戦端が切られた。この砲火に驚いたのがドイツ皇帝と政府首脳だった。まさか、本当にやるとは! ウィルヘルム二世は態度を豹変し、オーストリアに対して、行動を慎め、列強諸国の調停案を飲め、と勧告するが、これとは反対に、ドイツ帝国陸軍は戦闘開始に燃え立ち、オーストリアに対し、全陸軍の軍事編制を要求する。相矛盾する二つの方針を突きつけられたオーストリアは、いったい誰がドイツ帝国の責任者なのか、わからなくなる。  一方ロシアは、オーストリアのセルビアに対する宣戦は、ドイツのさしがねにちがいない、と確信した。国内の革命勢力の先鋭化に危機感を募らせていたロシアの皇帝ニコライ二世は、内務大臣マクラコフの次の言葉に飛びついた。「内乱の危険は、国をあげて武器を取ること以外に、抑える道はありません。戦争こそは、国内の敵より逃れる唯一の道であります」。かくて七月三〇日、ロシア全軍に、総動員がかけられた。  ロシア軍に総動員がかけられたという知らせは、ドイツ首脳たちを恐怖に陥れた。ロシアが動くなら、フランスも必ず動く。われわれは挟み撃ちにされる。本能的な恐怖が、防衛本能に火をつけた。そうであるなら、どうしてむざむざやられるのを待たねばならないのか。ドイツを守るためには、撃って出るしかないではないか!  ベートマン宰相は、帝国議会で開戦演説を行う。いわく、「われわれのように脅かされ、そしてもっとも高貴なもののため戦う者だけが、みずからの血路を開くために決断することを許されるのである!」会議場は、嵐のような歓呼につつまれる。世界大戦の火蓋が切られたのである。  歴史家ゴーロ・マン(トマス・マンの息子)は、『近代ドイツ史』(みすず書房)の中で、ドイツの前宰相ビューローが戦争勃発直後の様子を綴った回想録を引用している。それによると、皇帝ウィルヘルム二世は恐怖に青ざめた顔をして、取り乱していた。眼光を不安げにちらつかせ、興奮していると同時に、ぐったりしていた。ベートマンはどうかというと、いいようのない頼りなさと、悲しみの表情を見せていた。ビューローがベートマンのところに駆けつけ、「いったいどうしてこんなことになったのか話してくれ」と頼むと、ベートマンは長い両腕を高々とさしあげ、含み声で答えたという。「誰にわかるものか」  まさにシュタイナーの言うとおり、ドイツ政治は「カードの家」だった。戦争責任を負う能力すらない者たちに、すべての決定がゆだねられていたのである。だからシュタイナーは、こう言うのだ。 [#ここから2字下げ]  国家の「強さ」は、国家を担う人びとの「弱さ」の証拠なのである。   ——「われわれが必要としているもの」(『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』所収) [#ここで字下げ終わり]  大戦突入前夜、すでに中部ヨーロッパには精神の空洞状態がひろがっていた。現実を方向づけるヴィジョンと力をもった人物は、どこにも見あたらなかった。ただ軍事力と動物的本能だけが、人々を、しゃにむに戦火へと投げ込んでいったのである。いったいなぜ、こんなことになってしまったのか。 †はたしてそれは陰謀史観か?[#「†はたしてそれは陰謀史観か?」はゴシック体]  さて、シュタイナーの視座を紹介しよう。結論を先に言うなら、こうである。  ——この戦争は、一九世紀末から周到に準備されてきた。準備してきたのは、西ヨーロッパに存在するある秘密結社[#「ある秘密結社」に傍点]である。その目的は、中部ヨーロッパにドイツ精神文化の精髄を体現した社会が出現するのを阻止し、東ヨーロッパのスラヴ系諸民族に対する指導的地位を、この結社が手にすることであった。西の結社が、明確な目的意識をもって、中部ならびに東部ヨーロッパに関わってきたのに対し、中部ヨーロッパの指導者たちは、その意図を見抜けなかったどころか、自分たち自身の本来の社会ヴィジョンすら意識化できなかった。そのために、西の結社の思うつぼにはまって、みずから崩壊せざるを得なかった。それが、この戦争の真相である——と。  シュタイナーのこの観点は、一種の陰謀史観である。歴史の表舞台には現れない秘密結社が、世界大戦をひそかに準備してきた、と言うのだから。また、シュタイナー自身がドイツ文化圏の人間であるために、ナショナルな臭いもする。陰謀史観とナショナリズムが結びつくと、どんな妄想も強弁できる、というのが世の常である。はたしてシュタイナーもそうなのか。ここは、ていねいに見ていかなければならない。  しかし、ていねいに見ると言っても、戦争にまで発展する国際間の事情が、すべてオープンになることはない。国と国との約束事には、必ずと言ってよいほど秘密協定がからんでいるし、文書化されることのない口頭の取引も存在する。公開された文書だけで歴史を再構成することは不可能である。歴史を動かすような種々の決定が、公的な場で、明らかに記録されつつ行われる、ということの方が稀である。  ではシュタイナーは、今述べたような観点をどうやって得たのか。霊的なヴィジョンに基づいてそうだと主張するのか。  先に紹介した戦時中の講演『東と西の間の中部ヨーロッパ』にしろ、またほぼ同時期に現代史を集中的に考察した講演(『時代考察』あるいは『虚偽のカルマ』)にしろ、シュタイナーは入手できる限りの資料をもとに、非常に緻密な情勢分析を行っている。政治や経済に関するさまざまな評論や報告書だけでなく、政策決定にたずさわった個々人の手記や、彼らに大きな影響を及ぼしたとおぼしき政治家、思想家、文化人の著作や論文、新聞に掲載された小さな記事等々を、彼は驚くほどよく読んでいる。  三十代のシュタイナーはジャーナリストだった。当時の扇動的なマスコミのやり口には一貫して批判的であり、資料分析にかけては、ゲーテの自然科学論文を校訂していた時代の学究としての倫理が生きていた。  彼の論述の中で飛躍が見られるのは、一見相互に関係のないある事柄と別なある事柄との間に、関連の糸を見出すときである。別々の事柄を結びつけるときの彼の思考は、確かに飛躍する。だから、この飛躍を裏付ける外的証拠を提示できない。けれども、そのような直観認識は、良質なジャーナリストの感覚だとも言える。  いずれにせよ、私はここで、シュタイナーの論証と判断の基準をすべて明示し、その根拠を歴史的文献の中に問い、妥当な部分とそうでない部分とを厳密により分けるという作業を、本著の中で網羅的に展開する余裕も能力ももたない。これから私がやろうとするのは、まずシュタイナーの考え方を紹介したあとで、近代史上の出来事の中から注目すべき点をピックアップすることである。その上で、シュタイナーの歴史認識がはたして妥当かどうか、その判断を読者にゆだねよう。 †文化期の流れ[#「†文化期の流れ」はゴシック体]  シュタイナーは、ヨーロッパの文化の流れを、次のようにとらえる。ギリシア=ローマ文化以前には、大きな文化としてエジプト文化、メソポタミア文化、そしてペルシア文化、インド文化があった。ヨーロッパの形成は、これら古代諸文化の重層的な残照の中に、ギリシア=ローマ文化の伝統とヘブライズムから出てきたキリスト教とが結びつくところに発する。このあたりの話は、シュタイナーに固有な説ではない。  次いでその流れは、ゲルマン諸民族のヨーロッパ半島流入によって、大きく揺さぶられ、そこからおおむね次のような文化の流れが生じてきた。すなわち、ラテン系諸民族を中心とする文化期から、ゲルマン系諸民族を中心とする文化期への流れ、である。別な言い方をすれば、ローマ帝国の支配と影響が比較的早く浸透した地域から、ゲルマン的要素が比較的長く温存された地域へ、文化の中心の移動が見られる、と言うのである。  先行する文化の揺籃の中で、次の文化を担う民族が成熟する、という考え方がその背後にある。ギリシアはローマを育て、ローマがゲルマンを育てた。そして、濃密にローマ化されたラテン諸語を話す民族から順に、次の文化を担っていった、と言うのである。  近代の黎明期から以降、ヨーロッパは世界史上に固有な相をはっきり現す。そこで歴史の主人公となった民族を見るならば、上記の流れが裏付けられる。すなわち、イタリアの都市国家にはじまり、スペイン、ポルトガルへ、そしてフランス、オランダへとなり、その次に歴史に浮上するのがイギリスである。まさに、ラテン系諸民族からゲルマン系諸民族へである。  念のため断っておくが、ここでイギリスという場合、イングランドの支配者であるアングロ=サクソン系の諸王朝を指している。アングロ=サクソンは、もともとは北ドイツ平原にいたアングル族とサクソン族という西ゲルマン系に属する民族である。  また以上に述べたことは、近代の黎明期以降、世界に侵出したヨーロッパ諸国の変遷と一致している。一六世紀に日本にやってきたヨーロッパ人の順序も、おおむねこれに合致する。いわゆる南蛮人(ポルトガル人、スペイン人)から紅毛人(オランダ人)へである。  そして、次の命題が来る。ラテン系からゲルマン系へと文化の中心が移動したとき、すでに世界はヨーロッパの覇権の下に組み込まれつつあったが、世界的規模にまで発展したヨーロッパ文化の主導権を握るのは、ゲルマン系のうちのどこであるのか[#「ゲルマン系のうちのどこであるのか」に傍点]。これが近代における第一命題である。  そして第二命題が来る。次の中心はどこへ移動するのか[#「次の中心はどこへ移動するのか」に傍点]。  第二の命題に関しては、一九世紀にヨーロッパ史の流れを洞察した人々にとって、答えは明白であった。スラヴである。文化の主軸が、地政学的に西方から東方へ移動していく、という観念もその背景にあったが、現実にピョートル大帝やエカテリーナ二世といった名君がロシアに現れ、およそ一世紀をついやして文化基盤を耕してきたスラヴ系諸民族は、一九世紀になって、ヨーロッパの東方から力強く登場してきたのである。  それは単に、ロマノフ朝が国際紛争に介入することができるようになったという、軍事的、政治的な力をもってそう言うのではなく、たとえばプーシキンからゴーゴリ、ツルゲーネフからトルストイ、そしてドストエフスキーへといたる一連のロシア文学が、ヨーロッパ世界にもたらした衝撃をもって、そう言うのである。そこには、中西部ヨーロッパの諸文化がかつて体験したことのなかった圧倒的な情感の深みが存在した。これに魂を揺り動かされた中西部ヨーロッパの人々は、スラヴ系諸民族の中に、ヨーロッパ文化の究極的な成長形態を夢見るようになったのである。  さて、この二つの命題は、次のように結合できる。すなわち、来るべきスラヴ文化期を、その懐ではぐくみ、成熟へと導くのは、どのゲルマン系であるか。  シュタイナーに対する誤解をあらかじめ防ぐために、ここで一言述べておかなければならない。シュタイナーは、上の質問に対する答えがドイツだ、と主張したのではない。ヨーロッパ文化を、将来、飛躍的に高める可能性がスラヴ系諸民族に存在することに関しては、シュタイナーも同じヴィジョンを共有していた。また近代が、ゲルマン系の諸民族によって方向づけられることも、ドイツには独自の課題があることも、もちろんシュタイナーは同意する。  しかし、ある文化から次の文化への発展は、思想や芸術、宗教性の内的変容、科学技術の革新等々を通して生じるものであって、その際の基本は、人が人に影響を与え、人は人から何ごとかよきことを学び取る、というところにある。文化が、民族の枠組みに沿って発展するように見えることはあるとしても、それは外から観察した結果の一つであって、実際に文化が伝わり、影響を与えるのは、個から個へである。  だから、文化期の移行と民族の栄枯盛衰とは本質的に関係ないし、ましてやどの民族がどの民族を指導するかとか、どの民族が文化期の主導権を握るかといった発想は間違っている、というのが、シュタイナーの基本的立場である。彼がドイツ人という場合、それは民族的帰属や国籍、血の系譜を指すのではなく、ドイツ語を文化基盤とする人、という意味である。 †第三のオカルティズム[#「†第三のオカルティズム」はゴシック体]  ところが、文化期から文化期への移行の問題を、まさにそのようにとらえ、しかも意図的に主導権を握るべきだと考える特定のグループが、近代になって出現した。このグループのことを、シュタイナーは「西の秘密結社」という言い方で表現している。人智学協会内部での講義では、具体的に結社の名前も挙げているが、その名称をもつグループそれ自体が問題なのではない。どのような名称のグループであれ、そこで語られている思想が問題の本質をなしているのである。  ここで私は、第三のオカルティズムについて述べなければならない。  先に私は、キリスト教がローマ化されて以後、自由な直観認識によって自己と世界の本質を洞察しようとしたグノーシス諸派が異端として禁じられ、強いられてオカルティズムとなったと言い、それを第一のオカルティズムとして紹介した。そのあとで、キリスト教成立以前の古代秘儀を継承する第二のオカルティズムについて述べた。この両者は相互に結びつきながら、ヨーロッパの地下水脈を形作ってきたのだが、近代になって新しいオカルティズムが登場したのである。  この第三のオカルティズムは、前二者の秘密の伝承をふまえながら、大胆にも、人間が歴史形成の主体となるべきだ[#「人間が歴史形成の主体となるべきだ」に傍点]、というドグマをうち立てた。このドグマによって、第三のオカルティズムを行動原理とした人々は、宗教的、文化的分野において活動するのみならず、政治、軍事、経済領域での指導的立場にも、積極的に浸透しようとしたのである。  一八世紀のはじめ頃、イギリスに生まれたこの近代的オカルト結社は、人間理性による社会建設を目標に掲げた。その背景には、イギリスの名誉革命がある。王や貴族の専制支配による、勝手気ままな統治よりも、立憲君主制による統治の方が人間理性にかなっており、結局は世界を安定させる、というのだ。  その後、この結社のドグマから、アメリカの独立とフランス革命が生じた。と言うと、「いや、アメリカに君主はいないし、フランスは王を断頭台に送った。両国は共和制であって、イギリスの立憲君主制とは本質的に異なる」、と反論する人がいるだろう。けれども今問題なのは、王朝をいただいているか否かではない。統治のシステムに、人間理性の覆いがかけられているかどうかが問題なのである。ただし、この場合の人間理性とは、現実には、この結社に属する人間が統治機関の根幹神経を握っている、ということを意味する。  ところで、イギリス、フランス、アメリカで成長したこの政治システムのことを、一般には議会制民主主義と呼ぶが、今問題にしている結社の存在と民主主義とは、本質的に相容れないように思うだろう。民主主義が主権在民を意味するのに、上述の結社は権力のひそかな独占を意味する、と考えられるからだ。しかし、ここはひとつ議会制民主主義というものを、現実に即してじっくり考えてみていただきたい。 †議会制民主主義の陰の側面[#「†議会制民主主義の陰の側面」はゴシック体]  シュタイナーは、この政治システムに対して醒めていた。民主主義によって、人々の多様な意見が汲みとられ、実現されていく、などという幻想を抱いてはいなかった。このシステムが、実際には、既存の経済上の利益を代表する者たちによって議席が占領され、新しい社会形成を訴える者を法的に拘束する機能しか果たさない、という現実を、彼は繰り返し指摘した。  議会制民主主義を導入した西の結社の考えは、こうである。近代になれば否応なく、人々は個人として尊重されたいと思うようになる。これまでのように、封建権力が力で人々を押さえ込む時代は、もう終わらなければならない。その代わり、自分たちの意志が反映されている、と信じることのできる[#「信じることのできる」に傍点]システムが作られなければならない。それには代議制がふさわしい。人々には段階的に参政権を与えることによって、あたかも自分の意志がそこに反映されているかのような幻想を抱かせるのだ。  代議制とは、近代的な錬金術である。一枚の投票用紙は、ぺらぺらに薄められ切り刻まれた金箔のようなものだ。それは確かに、国家意思の形成にまで連なっているかのような一片の輝きを見せる。しかし、結局のところ、集票のプロセスを通ることで一人ひとりの意志は溶解し、どろどろに溶けた金《きん》=金《かね》となり、投票者の意志とは関係のないところで用意された型に流し込まれる。そこではじめて、黄金の国家意思が金塊となって現れるのだ。  では、そうやって投票権を得た個々人には、自分たちの意志の実現の代わりに、いったい何が与えられるのか。「国民意識」が与えられるのである。つまり、自分たちの投票によって国家が成り立っているというイデオロギーが与えられるのである。統治システムに参加している、という感覚によって、この「国家」を支えているのは自分たち「国民」なのだ、という自覚が作り出されるのだ。人々はもはや自分勝手な個人であってはならない。国家を支える国民とならなければならない。国家の死活問題は、すなわち自己の死活問題であるのだから。  こうした国民意識を人々の内面に作り出す上で、もっとも効率的に利用されたのが「民族」という文化概念である。それは元来、文化上の概念なのだが、国民国家のイデオロギーが作り出されることによって、人々の帰属感情を強化するもっとも政治的な概念の一つになった。  真っ先に民族言語が整備されて「国語」となり、教育を通して人々の意識を国家の前に整列させた。近代国家の教育制度は、人々を「○○人《じん》」に仕立て上げるのである。そして成人すれば、参政権とひきかえに、いくばくかの福祉と保護が与えられ、と同時に、「○○人」たる国民は、教育と納税と兵役の義務を負うのである。つまり、わが子を学校に差し出して国民予備隊にし、税を差し出して国庫を潤し、そして戦時には一つしかない自分の生命を差し出すのだ。これが議会制民主主義の陰の側面である。  人々が国民意識に覆われると、国家の枠を超えて精神が自由に働くことはむずかしくなる。利害の対立が生じると、たちまち人々は、「○○人」の枠組みに閉じこもって、防衛的あるいは攻撃的な意識状態に駆り立てられる。その結果、国内的には、単純明快なスローガンの下に一致団結が可能となる。本来多様であるはずの意見が、かけ声一つで方向づけられるようになるのであるから、これほど便利な統治システムはない。このことはしかし、このシステムの最大のメリットではない。  国民国家のイデオロギーが醸し出す最高のうま味は、この統治システムを操作している結社が、人々の眼差しから見えなくなる、という点にある。だからオカルティズムなのだ。人々は自分が主権者だと思い込む。国家の命運に倫理的責任を感じるようになる。まさにその倫理的感情が、真の統治者の存在を、意識から覆い隠してしまうのである。そして、この結社のメンバーが、実のところ国民意識などもっておらず、国境を軽々と越えて、グローバルなネットワークを結んでいることが、国民にはまったく見えない。この世に存在する最高位の権力主体は、国家だと思い込まされるので、国家を超えたものを想像できなくなるのである。  結社は国民の中に、次のような意識を流し込んでいく。国家こそは、近代社会の権力主体として最高位にある。国家を超える主権者は存在しない。あとは、この国家間の勢力均衡だけが、世界平和を維持するための唯一の方途となる。国家間の利害調整、交渉と妥協、同盟と条約、それら腹芸に次ぐ腹芸が、世界の安全と平和を保証する唯一の現実的選択なのだ、と。  以上のような、議会制民主主義に基づく国民国家のイデオロギーこそ、西の結社が世界に浸透させようとしたドグマなのである。 †理想に嘘が含まれるとき[#「†理想に嘘が含まれるとき」はゴシック体]  イギリス、フランスはいずれも、この統治システムに成功した。この二国は国民国家の理想を世界に向かって提示した。しかし、忘れてはならないのは、この二国の言う理想には、嘘が含まれているということである。植民地支配という嘘である。  この二国は、植民地の人々にも民主的であったろうか。インド人は大英帝国の政治に対して発言権を有しただろうか。ベトナムやカンボジアの人々はフランスの植民地政策に対して発言する権利を保障されたであろうか。そんなことはなかったのである。  シュタイナーは、『時代考察』の冒頭で、イギリスが地球の土地の四分の一を支配している現実があるのに、人々がそのことを考慮せずに、ヨーロッパにおけるドイツの覇権主義について議論するのはバカげている、と強調する。「イギリスとフランスとロシアの植民地を合わせると、地表の半分になる。そうだとしたら、抽象的なおしゃべりをする前に、『なんだかんだ言ったって、地球の半分を支配している連中にはしたがわざるをえないじゃないか』、と本音を言うべきだろう」(一九一六年一二月四日の講演)とさえ皮肉っている。  イギリスとフランスが世界に向かって宣伝する、議会制民主主義に基づく国民国家というイデオロギーには、植民地支配というまったく非民主的な底辺が存在する。この下支えがあってはじめて、イギリスとフランスの議会は、その富の配分についてあれこれおしゃべりができるのである。  ある理想に嘘が含まれるとき、それは、伝染性の病となって人々の意識を侵す。西の結社は、この病原菌を、「民族自決」という美名の下に、中部ヨーロッパと東部ヨーロッパの中間地帯に感染させたのだ。バルカン半島を火薬庫にしてしまったのは、この病原菌なのである。  中部ヨーロッパと東部ヨーロッパの中間地帯は、歴史的に多民族混住地帯である。とりわけオーストリア=ハンガリー帝国領内とバルカン半島はそうであった。もしもここで、民族自決主義に基づいて国民国家を樹立しようとするなら、人々の現実的な生活環境のど真ん中に、人工的な国境線を引かざるを得ない。そうなれば、そうやって引かれた国境線が、昨日まで隣人同士であった人々を引き裂く。強制移住でもさせない限り、地表に線を引くことは不可能である。それでもなお国民国家を作り出そうとするなら、武器によるしかない。 †社会有機体三分節化構想[#「†社会有機体三分節化構想」はゴシック体]  サラエヴォで暗殺されたフランツ=フェルディナンド皇太子には、「ドナウ王国」という、南スラヴ連邦国家構想があった。南スラヴ地域に編み目のような支流を有するドナウ川にならって、同地域に混住する諸民族が、民族自決主義にはやって政治的に対立するのではなく、互いを尊重しつつ、経済と文化の交流を通して、ゆるやかな連邦制へ移行しよう、という構想である。  もちろんその背景には、オーストリア=ハンガリー帝国内部に頻発する独立運動や、国境を脅かす南スラヴ諸民族の策動を抑制しつつ、ハプスブルグ朝をなんとか維持したいという意図があったが、シュタイナーは、現実的な選択肢としてこれを支持した。  フランツ=フェルディナンドは、南スラヴ地域にドナウ連邦国家を作り出し、ハンガリー帝国を自立させることによって、オーストリア帝国と合わせて、三重国家を実現しようとしていた。これが実現したなら、中部ヨーロッパにゲルマン系とスラヴ系との共存共生空間が作り出されるはずであった。  さらに、軍事大国化しつつあったドイツ帝国が、西スラヴ民族の代表格であるポーランドとの関係を改善し、その急激な産業の成長を、中部ヨーロッパから東部ヨーロッパ全域に向けて開放したなら、北はバルト海から南はアドリア海、エーゲ海、黒海にまで及ぶ一大共生空間が生み出される。  もしも、これが実現したなら、中東部ヨーロッパ全域に、国民国家のイデオロギーとは本質的に異なる社会が出現したのである。そこでは、個々人の精神活動と経済活動とが、国民意識の呪縛とは無関係に解き放たれたはずなのだ。  人間はまず、その精神においては徹底して「私」である。「○○人」は存在しない。この「私」は、どんな帰属感情にも左右されず、自分の道を自分で見出す。自分が学びたいと思った文化からは、たとえそれが自分とは異なる民族の文化であれ、当然のようにそれを尊重して学ぶ。そうすることによって、自分の民族文化をもさらに豊かなものにする。自由な個人こそが、尊重されるべき存在の基礎単位である。  経済活動は、国家が利己的に取り決める保護関税の障壁なしに、ある財を必要とする地域へ、その財を生産可能な地域から、経済原理に則って送り込まれ、消費される。ここには国民経済は存在しない。国家単位によって経済活動が制約される必要がないことを、経済活動それ自身が日々証明しているからだ。いい物を作れば、誰だって買う。民族単位で売る売らないなどというのは、経済原則に反している。現実にも当時の経済は、国境を越えて進展しつつあった。  そして人々は、法的権利の平等だけを求めて、代議制に参加する。議会は国家の意志を代弁するのではないし、人々を国民に仕立て上げるために教育制度を管理するのでもなく、経済活動をほしいままに誘導するのでもない。それはただ、社会に正義が実現されるための手段として、法的平等の問題を話し合いで解決する場としてのみ、存在するのだ。 「精神における自由」、「経済における友愛」、「法・政治における平等」という、シュタイナーが訴えた社会有機体三分節化とは、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、中東部ヨーロッパの現実そのものが欲していた社会の雛型にほかならない。この三分節化構想は、シュタイナーが頭の中でひねり出したものではなく、かけ声だけのスローガンでもなかった。それは、国民国家のイデオロギーに脅かされ、隣人同士の殺し合いに直面させられた中東部ヨーロッパの人々が、隣人とともに生きていきたいと願いつつ希求していた社会ヴィジョンなのである。  人々は欲していたのだ、国民国家のイデオロギーとは本質において異なる生き方を。民族自決主義では集団自決に行き着くしかないと直観して、「国民」になる以外に、われわれに生きる道はないのか、と訴えていたのである。シュタイナーはその叫びを聴きとって、三分節化構想にその願いを結集しようとした。 †ヨーロッパにおける東西の結婚[#「†ヨーロッパにおける東西の結婚」はゴシック体]  西の結社は、フランツ=フェルディナンドの構想が実現するのを阻止しようとした。もしもそれが実現されれば、まず第一に、自分たちが苦労して人々の意識に感染させてきた国民国家のイデオロギーが破綻し、そして第二に、来るべきスラヴ民族の文化期に指導的役割を果たすのはドイツ人になってしまう、と考えたからだ。  そこでこの結社は、主にフランス政府とパリにある国際金融シンジケートを通して、ロシアに接近をはかる。他方、セルビアの民族主義者を扇動して、大セルビア王国を夢見させつつ、南スラヴ地域に民族自決主義を打ち込んでいった。セルビアの後ろ盾はロシアである。ロシア自身が国民国家として肥大化しつつ、その覇権主義の延長線上に、セルビアの民族主義を直結させ、フランツ=フェルディナンド構想を潰しにかかったのである。過激な民族主義がこの地域に吹き荒れた結果、一八八三年から八七年のわずか五年間に、三六四人もの政治的暗殺が行われた。  西の結社では、ロシアとのこの結びつきを、「ヨーロッパにおける東西の結婚」と呼んでいた。イギリス、フランス、ロシアの三国が同盟関係を結び、国民国家のイデオロギーをスラヴ諸民族の内部に打ち込むことによって、一触即発の政治状況をバルカン半島に作り出し、しかるべき出来事を生じさせた上で、あとは連鎖反応的に、将棋倒しのように、東西両面から、一気にドイツを叩きつぶすこと。それが、当初からの目的だったのである。人々を恐怖と憎悪のるつぼに陥れることによって、国民国家以外に、生き延びる道はないのだということを、思い知らせてやるために。  西の結社が、こうした「結婚」を実行に移そうと決意したのは、ある存在が、ロシア人として世に現れたからだった。ブラヴァツキーである。彼女の中には、スラヴ民族の圧倒的な心情の根源的諸力が湧き出ていた。そのブラヴァツキーの興した近代オカルト運動が、インドの反英独立闘争と連携して列強諸国の植民地支配をくつがえそうとし、なおかつ中部ヨーロッパに成熟を見せていた高度な精神文化、とりわけその中の自由な個体というドイツ精神文化の理想と一つになることによって、世界的な広がりをもつ新しい精神文化の主流に躍り出ることを、何がなんでも阻止せねばならないと、西の結社は思い定めたのである。  ブラヴァツキーはアメリカとイギリス、そしてインドを行き来する中で、植民地支配に対する精神的な抵抗の拠点を次々に作っていった。一八八〇年代になってからは、ドイツ文化圏にも接近し、先述した通り、八四年にはヒュッベ=シュライデンを中心に、神智学協会のドイツ支部が設立された。八〇年代後半から九〇年代にかけて、ブラヴァツキー文献のドイツ語訳が陸続と出版される。中部ヨーロッパの多くの人々が、スラヴ的魂の新しい可能性に目を見開かれつつあった。  この状況に危機感を抱いた西の結社は、九一年にブラヴァツキーが他界するや、神智学運動をドイツから離反させ、自分たちの管理下に置こうと画策した。先に紹介した、一九〇二年におけるベサントとシュタイナーとの緊張関係は、そうした背景をもっているのである。ただし、ベサント自身がどこまでこの結社の動きを意識していたかは不明である。  以上の観点を、シュタイナーはきわめて慎重に語った。イギリス人、フランス人、ロシア人に対する反感を、ドイツ人の間にかき立てないよう、配慮しつつ語った。民族的対立を煽ることは、シュタイナーの本意ではない。イギリス人、フランス人が問題なのではなく、西の結社が抱いている思想が問題なのである。  もちろん、これを紹介した私にも、そのような意図はない。私の意図するところは、以上の観点を、以下の歴史的な出来事によって照らし出すことである。 †外交革命[#「†外交革命」はゴシック体]  一八七一年の普仏戦争終結以来、一九世紀末まで、中部ヨーロッパには比較的平和な時期が訪れた。これは、ドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルク(一八一五—九八年)の外交手腕によるところが大きい。彼は、ヨーロッパにおいて、ロシアとオーストリア、さらにはイタリアと同盟関係を結び、フランスを相対的に孤立化させる政策を採った。この時期、イギリスは、大陸での出来事に対して、「名誉ある孤立」を保っていた。  ビスマルクのこの路線は、中部ヨーロッパと東部ヨーロッパとの間に活発な人的物的交流を生んだ。彼が作り出したヨーロッパの図式は、平和と安定を目的としたものであり、戦争に備える軍事同盟の色合いは希薄であった。また彼は、ドイツ統一の後は、国内体制の充実に集中し、他の列強のような植民地獲得を当面目指さなかった。これもまた、ヨーロッパの安定に寄与していた。  一八九〇年にビスマルクが辞任して、若き皇帝ウィルヘルム二世が血気にはやって新路線を走り出すと、事態は急変した。ウィルヘルム二世と新しい政府首脳とは、国内の地主貴族と工業資本家の意を受けて、ロシアに対する高率の関税を新政策として掲げた。当然、ロシアはこれに反発する。そこへフランスが接近する。  すでにその二年前から、ロシア公債をパリの金融シンジケートが買い込んでいたが、フランスはロシアから武器を購入することで、新たな蜜月の演出に入っていた。露仏同盟が成立するのが一八九四年である。ただし秘密協定であり、公開されなかった。ドイツを飛び越えて結ばれたこの同盟は、当初から秘密の軍事同盟というニュアンスをおびていた。  この時点でイギリスには、フランス・ロシアと結びつくか、それともドイツ・イタリアと結びつくかという二者択一があったという。けれども事態は、一九〇一年に親仏的なエドワード七世がイギリス王として即位するに及んで急転する。一九〇三年には、エドワードがパリを訪問し、これに対してフランス大統領ルーベがロンドンを答礼訪問する。そして一九〇四年、日露戦争勃発の砲声を受けて、英仏協商が成立するのである。  日露戦争でロシアは疲弊した。イギリスは機を逃さなかった。これまで植民地をめぐって地球上のいたるところで対立してきた英露間の諸問題に決着をつけるチャンスである。一九〇七年、フランスの仲介で英露協商が成立する。イタリアは、この間の情勢変化を察知して、ドイツ・オーストリアから離れる政策を内部決定していた。  ここに、わずか二十年足らずで、中部ヨーロッパに形成されていた比較的安定した国際情勢は、ドイツとオーストリアを東西から包囲するという、まったく逆転した状況へと変化したのである。世に「外交革命」と呼ばれているこの変化が、ビスマルクの作り出した平和を目的とする相互防御同盟から、臨戦態勢の軍事同盟への質的転換であったことを、歴史家たちは認めている。  以上の歴史的経過をふまえて、読者は先のシュタイナーの観点をどう評価するだろうか。それはシュタイナーの、いや、はっきり言ってドイツ人の、被害妄想が生み出した根拠なき陰謀史観にすぎないだろうか。それとも、歴史認識に対する洞察を含んでいるだろうか。 †シュタイナーの闘い[#「†シュタイナーの闘い」はゴシック体]  シュタイナーは戦時下を動いた。大戦中シュタイナーは、ベルリンと、中立国スイスのドルナハとを行き来したが、戦争勃発と同時に彼は、ドルナハにいる友人たちに呼びかけて、救急看護に心得のある者から簡単な応急処置の手ほどきを受けるよう、人々にうながした。もっとも必要とされることを、まず実行すること、そういう現実感覚が彼にはあった。  開戦当初の一九一四年八月、西部戦線の指揮を執る陸軍参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケから、個人的に会いたい旨連絡が入り、シュタイナーは会談に臨む。モルトケ参謀総長は、フランスとの間に戦端が切られるや、人類がこれまで体験したことのない壮絶な殺戮へと突入しつつあることを予感して、神経衰弱に陥っていた。対談後、九月に行われたマルヌ会戦で、独仏両軍は、膠着《こうちやく》状態に陥る。モルトケは重病人となって戦線から離脱、職を免ぜられた。  ドイツの敗北が濃厚となり、日々破局が迫りつつあった一九一七年八月、シュタイナーは、現下の絶望的状況でこそはじめて目覚める意識があるはずだと信じて、ドイツ帝国外相リヒァルト・フォン・キュールマンと直談判するとともに、オーストリア帝国首相ポリツァー・ホーディッツ・アルトゥールに対して上申書を提示した。いずれも、両国が、この地域にまだ存在する三分節化された社会への可能性を、平和目標として内外に緊急提言するよう訴えるものである。この提言は、おそらく同じ疲弊下にあるロシアの民衆にとっても、十分受け容れられるはずだ、と考えたのである。  しかし、結果は虚しかった。両国の政府首脳はシュタイナーの提言を活かそうとはしなかった。そのかわり、一九一八年三月、東部戦線において、ソヴィエト革命政権とドイツ政府との間でブレスト=リトウスク単独講和条約が結ばれ、ドイツは西部戦線へと最後の活路を求めてしまったのである。  一九一八年夏の段階で、ドイツの敗北は明白だった。皇帝と政府首脳は、自分たちにできるだけ有利な形で休戦にもちこもうと、浅はかな夢を見ていたが、そうするうちにも、人々は次々と殺されていった。  一〇月末、北ドイツのキール軍港で水兵たちが反旗を翻した。軍内部の反乱は、事態を急転させた。多くの都市で帝国政府打倒を掲げる社会主義者を中心とした革命軍が立ち上がった。ミュンヘンでは社会主義政権が誕生した。ドイツは内部から崩壊したのである。皇帝ウィルヘルム二世は退位し、オランダへ亡命した。ドイツは無条件降伏の屈辱を飲まざるを得なかった。 †社会運動の挫折[#「†社会運動の挫折」はゴシック体]  敗戦直後のドイツには、廃墟の中に無秩序が広がろうとしていた。政権の座に着いた共和政府の新首脳部は、事態を把握していなかった。共産革命を狙う勢力は、主要都市で蜂起を繰り返していた。威信を砕かれた軍部は、ドイツの赤化を阻止することに全力を挙げ、来るべき再挙に備えようとしていた。人々は家族を亡くし、家を破壊され、食べ物を求めていた。以上が国内状況である。  外からは、白旗を揚げたドイツに対して、アメリカ大統領ウィルソンの一四箇条と、イギリス、フランス政府の思惑が絡みだしていた。ドイツとオーストリアのかつての支配地域には、次々と、民族自決を訴える独立運動が起こっていた。二つの帝国が、粉々に分割されるのは避けられなかった。国民国家の網が、中東部ヨーロッパを覆い尽くそうとしていた。  一九一九年三月、シュタイナーは混乱する社会に向けてアピールを出す。「ドイツ民族と文化世界に訴える」である。 [#2字下げ] ドイツ民族は半世紀前に仕上げた帝国建設事業が確実に限りなく維持され続けると思ってきました。一九一四年八月、つまり世界大戦による破局の始めの時点では、この事業の無敵さが証明できると思っていました。そのドイツ民族が今日では、その瓦礫の山を眺めることしかできずにいるのです。 [#地付き]——「ドイツ民族と文化世界に訴える」高橋巖訳  悲壮な調子で始まるこのアピールは、「不幸なときだからこそ、五十年来もとうとしなかった洞察をもたなければならない」と呼びかけ、中部ヨーロッパに芽生えつつあった、国民国家とは別なもう一つの生きる道、すなわち三分節化された社会構想を訴えかけたのである。  その上でシュタイナーは、社会の新しいヴィジョンを勇気をもって受け容れようとせず、今日の破局を招いた旧弊な思考習慣にしがみついていることの愚かしさを、次のように告発した。 [#2字下げ] あなた方は自分の思考習慣に従って現実の要求に従おうとする安易な態度に終始するのか、不幸から何も学ばずに、ひき起こされたものをさらにひき起こして、無限に不幸を生じさせていくつもりなのか。 [#地付き]——同著  この声明は、ドイツの各分野で活躍する第一線の著名人たちに配布され、それらの人々の署名を得た上で、広くドイツ社会に向かって公表された。署名者の中には作家のヘルマン・ヘッセの名も見える。  引き続き、大戦中から書き継がれた論文『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』が四月に出版される。シュタイナーは友人や賛同者とともに、「社会有機体三分節化同盟」を設立し、ドイツ社会にこの思想を普及しようと努めた。著書はこの年のうちに八万部を売り尽くした。  シュタイナーの訴えに関心を示す人々が、助言を求めてくるようになった。大戦末期にシュタイナーが説得を試みた政権内部の首脳たちではなく、危機意識をもっている資本家や文化人、そして労働者たちである。シュタイナーは、ダイムラー=ベンツ自動車工場や、ヴァルドルフ=アストリア煙草工場、デルモンテ工場などに出かけていっては、時に数千人の労働者に向けて、三分節化論を訴えかけ、活発な討議を重ねた。たちまち、三分節化同盟には多くの人々の関心が寄せられるようになった。  ヴァルドルフ教育は、この三分節化運動のさなかに生まれたのである。ヴァルドルフ=アストリア煙草工場の経営者であったエミール・モルトは、かねてよりとりくんでいた労働者への教育活動を、子どもたちのためにも行いたいと考えていた。彼はシュタイナーに相談し、煙草工場に附属する学校として、ヴァルドルフ学校を作ったのである。ヴァルドルフ教育思想の基礎文献である『教育の基礎としての一般人間学』が連続講義されたのも、一九一九年夏のこの時期であった。  シュタイナーとその社会三分節化論は、混乱状況下にあった社会の人々の注目を浴びた。ある意味では、シュタイナーが社会の表舞台でもっとも脚光を浴びたのがこの時期である。しかし、世間の耳目を集めるということは、それだけ批判も呼び込むこととなる。とりわけ、彼が行った労働者への力強い働きかけは、資本家の利害と、共産革命を目指す党派的指導者の利害と、ことごとく対立した。シュタイナーが、労働者たちの魂に播こうとした三分節化へ向けての種は、ブルジョワのエゴイズムとコミュニストの党利党略によって、芽吹く前に次々と摘み取られていった。その結果、この運動は、わずか二年足らずのうちに、何らの実りももたらさないまま挫折が明らかとなった。社会有機体三分節化運動は、その草創期に早くも破綻を余儀なくされたのである。  シュタイナーの社会運動は見るべき成果を上げずに終わった。けれどもその一方で、彼の訴える姿は、さまざまな人の関心を惹きつけた。もっともその中には、賛同者ばかりではなく、敵もいたのである。シュタイナーの表立った活動が、その敵をしてシュタイナーのことを無視できない存在と思わしめたのである。 [#改ページ]   第七章[#「第七章」はゴシック体]   魂の共同体[#「魂の共同体」はゴシック体]   ナチスの攻撃と人間の悲しみ[#「ナチスの攻撃と人間の悲しみ」はゴシック体] [#改ページ] †攻撃開始[#「†攻撃開始」はゴシック体] 「シュタイナーはユダヤ人である」——この攻撃的デマは、シュタイナーが社会三分節化運動をおおやけに開始した直後、ドイツ国内で発行されていたある機関紙に掲載された。筆者はディートリヒ・エッカルト(一八六八—一九二三年)、アドルフ・ヒトラーの師である。掲載されたのは『ミュンヒナー・ベオバハター』(「ミュンヘンの監視人」。すぐに『フェルキッシャー・ベオバハター』すなわち「民族過激派の監視人」と改題)の一九一九年五月一七日号である。 [#挿絵(img/fig3.jpg)]  エッカルトは引き続き同紙上で、扇動的なシュタイナー攻撃の論陣を張った。大戦初期、シュタイナーがモルトケ参謀総長と会ったことを取り上げて、催眠術でモルトケの戦闘意志を挫かせ、作戦を誤らせてドイツを敗北に導いたのは魔術師シュタイナーのせいであり、彼こそは戦犯だ、と訴えた。またシュタイナーが性魔術に通じているというパンフレットを大量にばらまき、スキャンダルを煽り、ユダヤ人組織の政治機関である共産主義者の代表はシュタイナーである、と決めつけたのである。  国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の前身であるドイツ労働者党は、一九一九年一月に創設された。シュタイナーの社会三分節化運動と同時期に、この党は産声をあげたのである。エッカルトは二五名いた党創設者の一人である。以後、ナチスはシュタイナーの活動に対してさまざまな攻撃を繰り返す。  私は今、シュタイナーの活動に対するナチスの攻撃について述べた。ナチスはただでも評判が悪い。人類史上、最悪の部類に属する。だから、「ナチス=悪」対「シュタイナー=善」という図式は、いたって受け容れられやすい話である。  けれども私は、事をそのように物語るつもりがない。なぜなら、あらかじめ悪しき敵を決めつけておいて、善対悪の単純明快な二項対立を持ち出し、人々の判断力に麻酔をかけるやり口は、そもそもナチスのものだと思うからだ。  シュタイナーがよく言うように、現実は複雑であり、現代人の思考力は単純である。わかりやすい話を現代人が好むのは、無意識のうちに、複雑きわまる現実に深入りすることを避けようとするからだ。けれども、やはりこれもシュタイナーがよく言うように、現実をどうしようもないほど複雑怪奇なものにしているのは、うまずたゆまず考え抜くことを放棄して、安易な結論に飛びついてしまう現代人の思考のあり方なのである。  シュタイナーのような思想家が中部ヨーロッパに出現した思想史的背景を、私はこれまで、できるだけ集中して述べてきたつもりである。彼が霊学をうち立て、それをもって現実に働きかけようとした必然性を、歴史と彼が生きた時代の両面から、描き出そうとしてきた。  けれども、その同じ歴史的背景からは、さまざまな思潮が流れ出てきたのである。ナチスへと結集していく過激な民族主義や反ユダヤ主義も、同じ思想史的背景から出現した。ナチスを特別な悪夢として異化してしまうことは、シュタイナーを特別な理想として異化するのと同じであり、ともに、中部ヨーロッパの歴史との結びつきを見えなくしてしまうだけである。  エッカルトの批判記事によると、彼は、ずいぶん以前に、ベルリンでシュタイナーの講演を聴いたことがあるという。シュタイナーがニーチェに心酔していた頃の話だ、というから、神智学協会の初期の頃だろう。彼はかなり前から、シュタイナーのことを意識的に見ていたことになる。  一九一九年という、ドイツ社会がもっとも混沌としていた時期に、奇しくも同時に社会活動を開始したシュタイナーに対して、最初から最大級の攻撃を仕掛けているエッカルトのこの行動は、いったい何を物語っているのだろうか。 †オランダ人智学協会のレポート[#「†オランダ人智学協会のレポート」はゴシック体]  興味深い議論を、最近の出来事から紹介しよう。先頃、オランダの人智学協会は、ある報告書を発表した(二〇〇〇年四月一日)。同協会の「人智学と人種問題」委員会が三年半かけて、シュタイナーの思想と人種差別との関連を調査した報告書である。  七二〇ページに及ぶ長大な報告書を、私は全部読んだわけではない。第一それはオランダ語で書かれている。手に入れたのは、英文の抄訳であり、ドイツの人智学雑誌『インフォ・ドライ』のホームページに掲載されていた (http://www.info3.de/English/e-0400report.html)。  報告書の結論はこうである。いわく、シュタイナーの著作には、人種差別的教義は見られず、個人や民族をその人種ゆえに侮蔑《ぶべつ》しようと意図した言説もない。シュタイナーはむしろ、反ユダヤ主義やナショナリズムとは正反対の立場にあると認められる。ただし、今日の観点から言えば、差別的な要素を含んだ言説や、差別的と受け取られかねない言説があることは事実である。  こう結論づけた上で、同報告書は、八万九〇〇〇ページに及ぶシュタイナー選集の中から、一六カ所をピックアップし、もしもそれらを、今日誰かが自分の考えとして述べたなら、オランダ刑法の人種差別禁止条項に違反する恐れがある、と警告している。  オランダの人智学協会が特別に委員会を作って、このような調査報告書を公表せざるを得なかったのには、もちろんわけがある。オランダには早くからシュタイナーの社会運動に共鳴した人々がいて、ヴァルドルフ教育や障害者のための共同体施設、有機農法などが普及し、第二次大戦後、人智学はオランダにおいて名誉ある地位を獲得した。  情勢が変化したのは一九八四年頃からだ。シュタイナーの思想には人種主義の教義がある、という非難が世論を刺激するようになった。その背景には、欧米で活発になったポスト=ホロコースト現象がある。ナチスによるユダヤ人虐殺の記憶を風化させまいとするさまざまな試みの中で、シュタイナーの思想が検討の対象になったのだ。  この現象はオランダだけのものではない。スイス、ドイツでも同様の非難や告発が人智学協会やヴァルドルフ学校に対して向けられているし、フランスとベルギーでは、公的機関が人智学協会を「危険なセクト」と見なし、内部査察させよ、と要求してきている。フランスとベルギーの人智学協会は裁判に訴えたが、第二審まで敗訴し、ストラスブールの国際司法裁判所に訴えることを検討中だという(二〇〇〇年七月末現在)。  かつてナチスの最高幹部が、シュタイナーを敵視していた一方で、それから八十年以上たった今日、シュタイナーがあたかもナチスと同様の思想を語っていたかのように告発されている。現実はかくも複雑である。この相反する現象は、何を物語っているのだろうか。 †「進化」と「人種」[#「†「進化」と「人種」」はゴシック体]  シュタイナーの文献を長年読んできたアジア人として[#「アジア人として」に傍点]、率直な感想を述べるとするなら、私はこれまで幾度も、彼の言説に見られる人種差別的表現に出くわして、不快感をおぼえてきた。彼の自由論や、個体主義、社会論などに深い感銘を受ければ受けるほど、その一方で、人類文化の流れをヴィジョンとして物語った『アカシャ年代記より』や、諸民族の文化的役割を語った『民族魂の使命』をはじめとするいくつかの著作や講演の中に、オリエンタリズムも赤面するほどの表現を見出して、幻滅させられたものである。  今私はそうした一節をここで引用する気になれない。前後の文脈や、その著作全体にこめられた思想との関連でしか、その箇所は読めないと思うからだ。人智学の護教家[#「護教家」に傍点]としてそう言うのではない。私はそんな立場にないし、私に護るべきものは何もない。何度も言うように、現実は複雑である。この問題を考えるには、やはり思想史の流れを理解する必要がある。  まず言えることは、時代状況だろう。オランダの人智学協会の報告書が何度も強調していることだが、なんと言ってもシュタイナーは、一九世紀後半において自己形成し、二〇世紀初頭に活躍した思想家である。この時代のヨーロッパ人が、非ヨーロッパ人に対していだいていた認識から、シュタイナーが完全に超越していたと考えるのは、信者[#「信者」に傍点]の態度である。ましてや彼は、ヨーロッパを一歩も出なかった。彼が知り得た非ヨーロッパ文化は、わずかばかりの非ヨーロッパ人との直接的な接触以外は、文献と口伝えであったはずだ。 「でもシュタイナーは、霊的ヴィジョンをもっていた」と言う信奉者もいるだろう。しかし、ヴィジョンの是非は誰にも検証できない。人が見た夢を、別の誰かが、正しい内容だったかどうか検証しようとするようなものだ。人が検証できるのは、彼がこの世に残した言説の内容だけである。  ところがその言説は、彼自身が述べているように、当時の自然科学上の諸成果をふまえて、近代人の考え方に訴えかけるように語られた。そして、彼が生きた時代において、非常に影響力をもったその自然科学上の概念が、「進化」と「人種」なのである。  シュタイナーが生まれた一九世紀中頃、自然科学の分野では進化論と遺伝学が、人々の話題をさらった。ダーウィンの『種の起源』やメンデルの遺伝の法則が次々と発表された。これらの思想は、人類学と結びつき、人類を分類する際の基準として取り入れられていった。そこに登場したのが、科学的な装いをもった人種決定論である。  人間は、人種によってその精神的発展が決定づけられている、というこの学説は、広大な植民地をもつイギリス、フランスで作り出され、社会ダーウィニズムと結びついて、適者生存や優生学の諸原理を生み、人種の優劣や植民地支配を正当化する論理として、ヨーロッパに蔓延していった。  そこへ、言語学の中で生み出された言葉が結びつく。インドのサンスクリット語とギリシア=ラテン語との間に文法的な近親関係を見出した言語学が、「インド=ヨーロッパ語[#「語」に傍点]」という言葉を作り出したのだが、この言葉がたちまち人類学の中に持ち込まれて「インド=ヨーロッパ人[#「人」に傍点]」となった。それが「インド=ゲルマン人」となり、「アーリア人」となる。これらの概念に人種思想が結びつくと、ナチスの思想まではあと一歩である。 †フェルキッシュ思想とドイツ神智学[#「†フェルキッシュ思想とドイツ神智学」はゴシック体]  人種思想や社会ダーウィニズムは、イギリスやフランスの植民地学から刺激を受けて派生したものだが、これがドイツに入ると、特別な思潮へと成長した。ドイツ・ロマン派と結びつくのである。  一九世紀初頭、ナポレオンからの解放戦争を戦う中で、ドイツ人の間には、熱烈なナショナリズムが湧き起こった。ドイツ的なるもの、ゲルマン的なるものの本質を求め、それをこの世界に実現しようとする激しい感情が一気に吹き出したのだが、当時まだ近代的な国民国家をもたなかったドイツ人は、そのナショナリスティックな熱情を、国民国家の設立へ向けて具現化するよりも、民族そのものを高揚させる方向へと注いだのである。  ここにフェルキッシュな思潮が流れ出す。volkisch(フェルキッシュ)とは、ドイツ語で「民族」を表す Volk(フォルク)の形容詞であるが、これを単に「民族的な」とか「民族の」という意味にとると、そのドイツ的特徴が失われる。  当時のドイツ人にとってフォルクとは、西ヨーロッパで文明的に作り出された近代市民意識やヒューマニズム、合理的知性等々とは本質的に異質な何ものかである。それは根源的な何かであり、躍動する生命を宿しており、理性によってではなく、深い心情を通して実感される、始源のエネルギーなのである。だからフェルキッシュとは、民族根源主義的な、あるいは民族原理主義的な、あるいは民族至上主義的な等々の形容をともなう、ドイツ的深淵を言い表す言葉である。  このフェルキッシュな思潮に、「インド=ヨーロッパ語」という一つの学問上の「発見」がインスピレーションをもたらす。早くも一九世紀初頭に、ロマン派の創唱者の一人であるフリードリヒ・シュレーゲルが言う。「まったくすべてがインドに端を発している」と(『インド人の言語と智慧』一八〇八年)。彼は次のようなヴィジョンを語った。すなわち、高度な文化をインドに築いた人々は、その後、崇高な衝動に突き動かされて西へと移動し、ペルシア文化、エジプト文化を築きながら、ヨーロッパに入ったのだ、と。  この霊感はフェルキッシュな思潮の原動力となって、一九世紀を突き進む。そこへ人種論や社会ダーウィニズム、比較言語学、ヴェーダ研究、ゲルマン神話研究等々が、ドイツ精神文化における根源的なるものを求めてからみつく。そして一世紀の歩みを進めたとき、古代インドから近代ゲルマンにいたる人類文化の発展のみならず、それをも包摂する壮大な宇宙進化のパノラマを霊感によって読みとったと主張する書物が現れた。ブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン』である。  そこには人類文化を導く基礎単位として、root-race「根幹人種」という概念があった。この人種概念に基づく進化のヴィジョンに、多くのフェルキッシュな思想家たちが魅了された。そしてそこから、神智学と結びついたフェルキッシュな神秘家たちが現れたのである。  ブラヴァツキーの著作をドイツ語に翻訳し、その思想をフェルキッシュな思想家たちに紹介したのは、フランツ・ハルトマンである。先に触れた通り、ブラヴァツキーがドイツで最初に神智学協会を立てたとき、中心人物の一人が彼であった。ちなみに、シュタイナーは当初からハルトマンのことを批判していた。ブラヴァツキーもまた、ハルトマンの移り気な性格を信用していなかった。  ハルトマンが活躍した重要な場の一つに「リスト協会」がある。この協会は、オーストリアのフェルキッシュな思想家グイード・フォン・リストの業績を称えるために設立されたものだ。リストはゲルマン神話を掘り起こし、古代ゲルマン文字であるルーン文字の復活を唱えた。  ハルトマンとともにリスト協会の重席にいたのが、同じくオーストリアのフェルキッシュ思想家で著名な反ユダヤ主義者、人種論者でもあったランツ・フォン・リーベンフェルスである。ランツはみずから、ヒトラーの反ユダヤ主義に甚大な影響を与えたと述べている。彼は、ハルトマンの神智学こそアーリア人の神秘科学である、と讃美した。  これらフェルキッシュな思想家たちと深く結びつき、神智学のみならず、伝統的な秘儀を伝えるオカルト結社とも関わりをもち、南ドイツのバイエルン地方で大きな影響力をもっていたのが、ゲルマン至上主義と反ユダヤ主義を掲げた結社「トゥーレ協会」である。ディートリヒ・エッカルトはその主要メンバーであった。ナチスの前身であるドイツ労働者党は、トゥーレ協会の政治結社として創設されたものである。 †時代における認識の限界[#「†時代における認識の限界」はゴシック体]  少しずつ整理しよう。まず、ブラヴァツキーの人種進化論は、たしかにフェルキッシュなグループにとって福音のように作用した。けれどもそれは、ブラヴァツキーの本来の意図を裏切っている。  先述した通り、ブラヴァツキーは圧倒的な白人優位の社会にあって、抑圧下にある諸民族の霊性復興運動を目指した。なるほど『シークレット・ドクトリン』を読めば、人類文化の流れを人種概念を用いて説いているが、それは目もくらむようなはるかな過去の時代の話であって、現代の人種間に優劣がある、などと述べてはいない。むしろ白人優位の人種論を、唯物論の現代文明が作り出した新しい神話にすぎない、と否定している。人間の外的形質と内的な精神能力とは、何の関係もないのである。  シュタイナーはどうだろうか。彼は、ブラヴァツキーのヴィジョンを受ける形で、独自の人類文化進化論を『アカシャ年代記より』に著している。一九〇四年から五年にかけて、雑誌『ルツィフェル=グノーシス』に連載したものだ。この中で彼は、ほぼブラヴァツキーと同じ人種概念を用いて、進化の流れを説いている。  けれども、同著を読むと、シュタイナーがもっとも描きたかったものは、現代において人間であることの意味だ、ということがわかる。人間がこの地球上に自己意識をもった存在として現れるその由来を、イメージ豊かなヴィジョンとして物語ることによって、同じこの地上に存在する草木、動物たち、そしてさらには目に見えないところで人類文化を支えてくれている存在たちとのたえることのない交流を、なんとか読者に伝えようとしている。  そう読むと、彼の使う人種という概念が、ブラヴァツキーよりもさらに脱人種化されていて、時代区分のための指標のように使われていることが読みとれる。実際彼は、のちのいろいろな講義の中で、人種にはもはや意味がないこと、現代では純粋な人種など存在しないこと、かつて自分が人種概念を用いたのは神智学上の概念として一般に用いられていたからであって、今なら別の時代区分を使う、と述べている。  ただ、そうはいっても、彼の言説が、「人種」と「進化」という当時のものの考え方に影響を受けているのは確かなことであり、そこにしばしば、有色人種に対するネガティヴな表現が見られるのも事実である。認識における一九世紀的限界とも言うべきものが、はっきりとそこには存在する。彼が、当時の自然科学的なものの考え方に沿って自分の思想を叙述した以上、致し方ないと言えるが、そうした言説を、今日においてもなお無自覚に用いるのは、明らかに問題である。その人自身の考え方が批判されるのは当然であろう。  そういう意味で言うなら、どの時代の誰にだって、そのときにはまだ意識化されない認識上の限界が存在するのである。二〇世紀的認識の限界から、この私も当然、解き放たれてはいない。  だから私は、シュタイナーの人種差別的言説に出会うたびに、一方で、これは現在は克服されなければならない考え方だ、と意識しながら、もう一方で、では自分は今、何を意識化すべきなのか、と問うことにしている。他人の限界を三つ指摘するより、自分の限界を一つ意識する方が、はるかに困難なのだ。もしも「進化」があり得るなら、それは、より困難な認識の方にこそ見出されるだろう。 †シュタイナーとエッカルト[#「†シュタイナーとエッカルト」はゴシック体]  さて、私が言いたかったのは、ナチスとシュタイナーを善悪二元論でわかりやすく対比することでもなければ、シュタイナー全集の重箱の隅をつついて差別を問うことでもなかった。シュタイナーもフェルキッシュな思想家たちも、ともに、ドイツ精神文化の精髄を求めて生きていた、ということなのである。一九世紀、中部ヨーロッパの大地から湧き出した同じ水源から、シュタイナーも、エッカルトも、何ものかを汲み上げようとしたのである。  たとえば、エッカルトのもう一人の弟子で、ナチズムのイデオローグとなったアルフレート・ローゼンベルクは、師について書いた評伝『ディートリヒ・エッカルト ある遺産』の中で、エッカルトの聖書はアンゲルス・シレジウス(一六二四—七七年)の著作であった、と述べている。シレジウスは、マイスター・エックハルトに発するドイツ神秘主義の最末端に位置する神秘家である。  ではいったい、エッカルトのシュタイナーに対する攻撃の本意はどこにあるのか。同じ精神文化の流れに位置しながら、一方が一方を敵と決めつけ、攻撃する以上、そこには決定的な対立点がなければならない。  ほぼ同時代人である二人、エッカルトとシュタイナーのそれぞれのテーゼを、比喩的に言い表わすなら、こうなるであろう。 [#ここから2字下げ] エッカルト——「神の光が現れるために、いかにして人間は、他と峻別されるか[#「他と峻別されるか」に傍点]」 シュタイナー——「神の光が現れるために、いかにして人間は、他と結びつくか[#「他と結びつくか」に傍点]」 [#ここで字下げ終わり]  シュタイナーの霊学は、すべての存在の中に[#「すべての存在の中に」に傍点]神の種《たね》が宿っているという直観に発し、その神的な種《たね》の社会的な開花のために、霊学を樹立しようとした。『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』に記された修行が、人間関係を育てるための社会的要請として書かれたのはそのためだし、社会論の中で諸民族の融和と共存を訴えたのもそのためだった。  これに対してエッカルトの思想は、ただドイツ民族の中にのみ[#「ただドイツ民族の中にのみ」に傍点]神の種が宿っているという直観に発し、その発現と栄光が、かくも疎外されているのはなぜかと問うて、その一切の責任をユダヤ人に帰したところに確立された。反ユダヤ主義である。彼のフェルキッシュな思想は、破壊的な反ユダヤ主義となって、ヒトラーに伝授されたのだ。 †シュタイナーとユダヤ人[#「†シュタイナーとユダヤ人」はゴシック体]  バルカン半島の付け根に生まれ、人生の前半をオーストリア地域で過ごしたシュタイナーの周辺には、多くのユダヤ人がいた。古くから、ドイツ文化になじみ、ドイツ語を母国語とし、ユダヤ教の伝統は守りながらも、ドイツ文化に寄与してきたユダヤ人が、大勢いたのである。  これら定着したユダヤ人の中には、経済的、社会的に成功した者も多かった。キリスト教社会の伝統的なユダヤ人差別は根強く、職業選択の自由はなかったが、貿易商、金融業、産業資本家、学者、芸術家、思想家、文化人として名をなした人々がいた。  その一方で、一八八一年以降、ロシアでポグロムと呼ばれる大規模なユダヤ人虐殺事件が発生すると、大勢のユダヤ人が中部ヨーロッパに移住してきた。彼・彼女らは貧しく、都市のゲットーに住み着いたり、スラムをなして、社会の底辺階層となっていった。  すなわち、一九世紀から二〇世紀のはじめにかけて、中部ヨーロッパの主要都市には、伝統的な反ユダヤ感情に加えて、土着の成功したユダヤ人に対する屈折した感情と、極貧下にある新来のユダヤ人に対するあからさまなさげすみという、複雑な感情が存在したのである。そんな環境下で自己形成したシュタイナーのユダヤ人観は、どうだったろうか。  水頭症を患っていたエルンスト少年のシュペヒト家は、ユダヤ人貿易商だった。シュタイナーはシュペヒト家で、二十代の六年間を家庭教師として暮らした。家の主人は、宗教的・人種的偏見にとらわれない人だったが、当時すでに激しさを増していた排外主義的な反ユダヤ主義には非常に敏感であった。当時のシュタイナーは、反ユダヤ主義に対する主人の神経過敏さを、過剰反応だと思っていたが、これはシュタイナーの認識不足だろう。いずれにしても、シュタイナーの友人の多くが反ユダヤ主義に染まっていたにもかかわらず、彼はこのユダヤ人一家と深い精神的な結びつきを育てている。  ウィーン時代の親友であった神秘家のフリードリヒ・エックシュタインもユダヤ人だった。彼が豊富なオカルト的知識の持ち主で、シュタイナーとの間に活発な議論のやりとりをしたことはすでに記した。  ベルリン時代のシュタイナーには、特筆すべきことがある。フランスで有名なドレフュス事件が起こったときのことだ。フランスの陸軍大尉ドレフュスが、ドイツのスパイ容疑で有罪判決を受けた。彼はユダヤ人だった。一八九八年、作家のエミール・ゾラは、「私は弾劾する!」という声明文を新聞に発表し、ドレフュス擁護、陸軍告発の論陣を張った。フランスの世論は有罪か無罪かをめぐってまっぷたつに割れた。  この余波はドイツを揺るがしたが、シュタイナーはゾラの声明文がフランスの新聞に載るや、いち早く自分が編集人を務める『文芸雑誌』上に、ゾラを擁護する論文を発表した。雑誌購読者のうち反ユダヤ主義的思想の持ち主から抗議が殺到、定期購読者が目に見えて減ったが、シュタイナーは自分の立場を曲げなかった。  またこれと同じ時期、シュタイナーには特別親しい友人がいた。詩人のルートヴィヒ・ヤコボフスキーである。彼もユダヤ人だった。しかも彼は、反ユダヤ主義の吹き荒れるベルリンで、その攻撃からユダヤ人を守るための組織「反ユダヤ主義防衛連盟」の代表だった。一九〇〇年に若くして彼が病で没したとき、シュタイナーは彼のために弔辞を読み、遺稿の整理をゆだねられている。  シュタイナーの人生をふり返ると、彼が反ユダヤ主義とは無縁の人間だったことがわかる。それのみか一貫して、反ユダヤ主義には反対の立場であった。反ユダヤ主義は裏返されたナショナリズムだ、と考えたからだ。  さて、一言、述べておきたいことがある。ナチズムとフェルキッシュな神秘思想との結びつき、さらには神智学あるいは人智学との関連といったテーマは、思想的にはこれまできわもの[#「きわもの」に傍点]として扱われてきた。私も五年以上前なら、この問題には触れなかったろう。  私がこれを取り上げる気になったのは、次の三つの理由による。第一に、ポスト=ホロコースト現象の中で、シュタイナーがあたかも人種差別主義者であったかのような攻撃が欧米でなされているという現状を、ここ日本でもふまえておく必要があると考えたこと。第二に、近年、ナチズムとオカルト的な思潮との関連を、学問的な研究対象として正当に評価する傾向が顕著になってきたこと(たとえばジョージ・L・モッセ著『フェルキッシュ革命』の邦訳出版。一九九八年、柏書房)。そして何よりも第三に、私がそうであったように、日本で暮らす人がシュタイナーの文献を熱心に読めば読むほど、彼の人種論的言説に眩惑されるであろうと思い、その思想的・時代的背景と、それに対する考え方を、ここで整理しておいた方がよいと判断したからである。 †テロの脅威[#「†テロの脅威」はゴシック体]  社会三分節化運動の前面から撤退して以降、シュタイナーの活動は、かえって活発化した。年間講演回数で見るなら、三分節化運動以前の戦時下では、年間一〇〇回を越えることはなかったのが、運動開始後、二〇〇回近い講演回数となり、運動の挫折以後も、その回数は増加の一途をたどった。社会論で著名となったシュタイナーの話を、多くの人が聞きたいと思うようになったのだ。大規模な講演活動が、ドイツを中心にヨーロッパ各地で展開されていった。  たとえば一九二〇年には、シュツットガルトで科学者のための連続講義を行う一方、スイスのドルナハでは医学の講義を開き、バーゼルでは教育の集中講義を行っている。翌二一年には、シュツットガルトで引き続き科学者のコースを継続するとともに、ドルナハでは唯物論の集中講義とさまざまな芸術論を展開し、その合間を縫ってオランダのハーグ、スイスのベルン、ノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)で短期の講演を行っている。この二年間だけ見ても講演回数は四〇〇回に迫った。シュタイナーは、都市から都市への移動の間にもうけられた数日の休憩をのぞいては、ほぼ連日の講演活動に入っていく。  同じ二年間におけるヒトラーの動向を見ておこう。ヒトラーがエッカルトと出会い、師事したのは、一九一九年の暮れだと言われている。翌二〇年の二月二四日、ヒトラーは、ミュンヘンのビヤホール、ホーフブロイハウスに集まった二〇〇〇人の聴衆を前にはじめて演壇に立ち、驚異的な大成功をおさめる。同年夏、党のシンボルとしてハーケンクロイツを採用。暮れには『フェルキッシャー・ベオバハター』を党の機関紙にした。翌二一年二月三日、ヒトラーは、同じくミュンヘンの大会場ツィクル・クローネで、六五〇〇人を集め、「未来か没落か」という演説を行って、党内で不動の地位を占めるようになる。  二一年三月一五日付けの『フェルキッシャー・ベオバハター』にヒトラーの巻頭社説が載った。シュタイナーのことを、「国家的犯罪者どもの悪魔的しわざを背後でたぐるユダヤ人だ!」と名指しで批判している。この年の夏、ヒトラーはナチスの党首となる。ヒトラーの登壇する大集会が増えていった。この時期すでに、数千人規模の集会が、週に一回から三回へと急増していく。  新しい局面が開かれたのは、二一年一一月四日、同じくミュンヘンのホーフブロイハウスでの集会だった。敵対するグループの攻撃が予想される中、ヒトラーははじめて「突撃隊」を組織する。集会直前、五〇名ほどの若き隊員たちに、彼は檄《げき》を放った。「ここから殺されて担ぎ出されるのでない限り、この中の一人といえども、講堂から逃げてはならない。攻撃こそ、最良の防御だ!」隊員たちは、「ハイル!」三唱でこれに応えた。  そして、一九二二年五月一五日、シュタイナーはミュンヘンに入る。旅行代理店「ヴォルフ・ウント・ザックス」社が企画したドイツ主要都市での講演旅行だった。会場はミュンヘンのホテル「フィア・ヤーレスツァイテン(四季)」。しかし、講演がはじまってしばらくすると、猛烈な妨害行動が起きた。暴漢がシュタイナーに襲いかかってきたのである。シュタイナーの友人たちが割って入り、彼を救い出してホテルから脱出させ、危うく難を逃れた。  当時、このホテルには、ナチスの党本部とトゥーレ協会の事務所があった。党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』の発行所もここにあり、ホテルのオーナーもトゥーレ協会のメンバーだった。シュタイナーにとってミュンヘンは、長年重要な活動拠点の一つだったし、多くの協力者がいた。彼がこれらの事実を知らなかったはずはない。  シュタイナーのそばにいた人たちの手記を読むと、彼の行動には一貫した信念があるように思われる。それは、どんな運命が待っていようと逃げない、という信念である。シュタイナーは、自分から講演を断ったことがなかった。ミュンヘンの駅で暗殺されるという予感をもったときも、予定通り駅に出かけた。フェルキッシュ・グループの暗殺ターゲット・トップテンにシュタイナーはランク入りしていたのである。要するに、そういう人なのだ。自分の生命が危険にさらされることよりも、自分の為すべきことを為さずに生きることの方が、我慢ならないのである。  為すべきこと、とは何か。  大戦中から、露骨なテロ攻撃を受けるにいたったこの時期まで、シュタイナーはある建設に、人生最大の、そしておそらくは最後の望みをかけていた。「魂の共同体」である。それは、物質的には、スイスのドルナハの丘に建てられた「ゲーテアヌム」(ゲーテ館)に中心がおかれたが、本質的には、一人ひとりの魂の中にその礎が築かれようとしていた。 †破壊の中の創造[#「†破壊の中の創造」はゴシック体]  ゲーテアヌムは、目には見えない「魂の共同体」のための場として建てられた。かねてよりシュタイナーは、霊学に基づく学問と芸術のためのセンターを作りたいと考えていた。そこへある篤志家から、スイスのバーゼル近郊にあるドルナハの丘陵地を提供したいという申し出があった。スイス、ドイツ、フランスの国境が接し合う、まさにヨーロッパの中心地であった。シュタイナーはこの申し出を受け、大戦勃発前の一九一三年九月二〇日、定礎式を行い、翌年四月には棟上げがかなった。建築費はすべて寄附でまかなわれた。  舞台と千人収容の観客席とがそれぞれドームで覆われる、二重構造の巨大な建築にたずさわるために、世界一七カ国から多くの人々がやってきた。ドイツ人、オーストリア人、スイス人、フランス人、イギリス人、ハンガリー人、ロシア人、チェコ人、ポーランド人等々が、共通の理念の実現のために、労力を捧げに集まった。人々は理想に燃え、自分たちの確信する世界観が、日々目に見える存在となって現れるのを、みずからの身体を通して実感した。  ところが、戦争がはじまったとき、ドルナハの丘をナショナリズムの暗雲が覆った。血と鉄の洗礼を受け、憎悪と怒りに憑依されつつあったヨーロッパの現実が、ドルナハの丘に立つ人々を、ドイツ的なるものをめぐって二つに引き裂こうとしたのである。シュタイナーに対しても、あまりにドイツ寄りである、との非難が浴びせられた。銃をとるために、故国に帰る者も出た。  シュタイナーは、破壊に次ぐ破壊に終始するヨーロッパの真ん中で、この建築にかけていた。異なる民族に属する人間が殺し合いをしている今だからこそ、異なる民族に属する人間がともに何ものかを創造できるという事実を、この世に生み出さなければならない。破壊の中の創造を可能にするためには、自分とは異なる民族の中の創造的なるものに対する畏敬の念を呼び覚ますしかない。  ある日シュタイナーは、ドルナハの丘に残った人々を集め、講義をはじめた。そこで彼は、ドイツ文化の、フランス文化の、イタリア文化の、イギリス文化の、ロシア文化の、もっとも美しく聖なる芸術についてひたすら語った。講義が終わったとき、自分たちがいったい何を願ってここに集まったか、思い出さない者はいなかった。自分の胸の奥深くに問えば、よかったのである。誰も人を傷つけたくて、ここに来たのではない。四年の間、間近のアルザス地方にとどろく砲声を、ゲーテアヌム建設の槌とノミの音が貫いた。  シュタイナーは言う。 [#2字下げ] ゲーテアヌムは戦時中、どんな場所であり続けたでしょうか。大戦を通じてあらゆる国の人びとが共に働き続けました。ときには不必要な議論をしたこともありましたが、戦前よりも互いに理解し合えなくなる、というようなことはまったくありませんでした。同じ霊的観点を共有することから来るこの相互理解は、はじめは小さなサークル内でのことであったとしても、それが現実に存在していたことに変わりはありません。私たちはいわばひとつの実験に成功したのです。そして戦争に参加する人が敵国の人を理解することができたのです。 [#地付き]——『社会の未来』高橋巖訳 イザラ書房 [#ここで字下げ終わり] †ゲーテアヌムの運命[#「†ゲーテアヌムの運命」はゴシック体]  完成されたゲーテアヌムは、戦後、あらゆる意味でシュタイナーの活動の拠点となった。彼はそこに霊学自由大学を作ろうとした。霊学に鼓舞された学問と芸術が、それぞれの専門分野において新しい方向性を切り開き、文化に寄与することを願ったのである。霊学自由大学の構想に基づくゲーテアヌムのオープニングは一九二〇年、医者のための講習から開始された。  一九二二年暮れ、この年シュタイナーの講演は二〇〇回に迫った。ゲーテアヌムを中軸にしたシュタイナーの広範囲な活動が軌道に乗ろうとしていた。しかし、それは同時に、敵たちに恰好の攻撃目標を与えることになった。  一二月三一日、ゲーテアヌムで、人間と星々の世界との結びつきを五回にわたって語り終えたシュタイナーは、いつもの通り、参加者から質問を受けながら館を離れた。ドルナハの上空には、星々が輝いていた。  午後一〇時過ぎ、ゲーテアヌムで出火の報を得て、シュタイナーは館に駆けつける。私設の消防団が懸命に火元を捜すが、煙ばかりたちこめて見つからない。協会員の中には、煙にまかれて失神する者さえ出る。  ようやく火が見つかったとき、火勢は一気に強まり、ドーム全体にひろがった。町の消防団も駆けつけたが、手遅れだった。シュタイナーはドームが焼け落ちる寸前に、すべての人にゲーテアヌムから離れるよう指示する。延焼をくい止めるのがやっとだった。  崩落したゲーテアヌムは、夜が明けるまで燃え続けた。シュタイナーは、焼け落ちた建物の周りを、夜通しゆっくりと歩いてまわったという。時々、一人でつぶやく声が聞こえた。「あれほどの労力が……。あれほどの年月が……。」  翌朝シュタイナーは、呆然と立ちすくむ人々に、延焼をまぬがれた木工場で、予定通り連続講義を行う準備をするよう告げる。定められた時間に、シュタイナーは急ごしらえの演壇に立った。講義はいつものように行われた。  けれどもその一方で、この日講義を終えるや、シュタイナーがふらついて人に支えられたという話もあり、この日以来いちじるしく体調を崩したという人もいる。一九一三年の定礎式から、四年の戦争をはさんで十年、そのすべてが、一晩で灰となったのである。  警察が捜査し、放火であることはまちがいないとされたけれども、結局犯人は確定されなかった。すでに二年ほど前から、放火を予告する脅迫がなかば公然と行われていた。だからこそ私設の消防団を作り、二四時間態勢で見張っていたのだが、ゲーテアヌムの焼失は不可避の運命として、シュタイナーを襲ったのである。 †引き裂かれる理想[#「†引き裂かれる理想」はゴシック体]  一九一八年のドイツの破局、そのわずか五年足らずのちのゲーテアヌムの焼失、この二回の破壊に対してシュタイナーがとった態度は同じであった。彼は、破壊をもたらした原因を外に追及するのではなく、内部に洞察しようとした。  中部ヨーロッパ世界が、新しい社会の萌芽を内部から育てようとしなかったことに対する深刻な内省から、社会三分節化運動をはじめたように、シュタイナーは、燃え尽きたゲーテアヌムの廃墟からふたたび何ものかを立ち上げるためには、崩壊の真の原因を、敵対勢力のテロのせいにするのではなく、人智学協会内部に見なければならない、と認識したのである。  人間には、どうしようもない悲しい宿命がある。理想を求める人は、はじめ心熱く集うのだが、しばらくすると、その理想で人を切りはじめ、冷え冷えとした傷心をかかえてバラバラになり、そして、寄り添う前よりももっと深い孤独に、一人ひとりが落ちていくのである。人智学協会も例外ではなかった。  内部崩壊の兆しは、いたるところに存在した。一九一三年からゲーテアヌムの建築がはじまり、人々が続々とドルナハの丘に集うようになると、一方、そこに移り住んでシュタイナーの間近で建設にたずさわることのできない人々の間には、寂しい疑心が生まれた。最初それは、かすかな孤独感だったのだが、ドルナハでの活動が盛んになればなるほど、それをあたたかく見守ることができず、刺すような眼差しに変化していくのだった。  ドイツ各地の支部にとどまって活動を続けた人々は、比較的年輩で、古くからの協会員だった。ところがドルナハには、専門分野をもった、若いメンバーが集まってきた。世代の問題も生じつつあった。  戦争が終わると、これまでの社会に絶望した多くの青年たちが、新しい社会建設を求めてシュタイナーの下に集まってきた。彼・彼女らは、戦争を引き起こした古い社会を信じなかった。新しい何かのためにひたすら能動的であろうとした。掲げる理想は高かった。けれども燃え上がる彼・彼女らの心は、取り残されたような気分に沈んでいた古くからのメンバーにやけどを負わせた。古参のメンバーから不満があがった。すると若者たちは言った。シュタイナーはいいが、あの人たちとは一緒にやれない、と。  各専門分野の中心人物たちは、自分の活動の発展に気持ちが集中した。自分の分野こそ、シュタイナーの理想をもっとも本質的に実現しつつある、という自負心は、一人ひとりにとっては純粋な動機となったが、他の分野との協調を阻害した。自分の主観的な熱意を越えて全体を見渡すという、バランス感覚の持ち主は少なかった。  部門間に、冷たいものが流れ出した。シュタイナーに対する尊敬と愛情に発したものが、いつの間にか、嫉妬の臭いがする主導権争いに変わっていった。力のある者は、確信に満ちて人を切りはじめた。力のない者は、陰で噂の棘をばらまいた。  それにもまして大半の人は、どうしようもなく受け身だった。新しい分野が開かれるたびに、部門から部門へ流浪する人は跡を絶たなかった。自分が何をしたいのかもわからず、ただ新しいものに飛びつきたがった。現実感覚を喪失し、甘い汁だけにむらがり、労苦を厭《いと》い、そのくせ、あちこちで仕入れた噂を無責任にまきちらす活動にだけは、異常なほど積極的だった。  誰も真剣に『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』を読んでいないのだった。他者の尊厳を守るために、みずからの魂を耕そうとする人間が、これほどまでに少ないことが、魂の共同体の礎を破壊したのだ。ゲーテアヌム再建の場が、党派根性と内部分裂の劇場に変貌しようとしていた。一つの理想が奪い合いの対象となり、千々に引き裂かれていった。魂のゲーテアヌムに火を放ったのは誰か、もはや明白だった。  一九二三年を通して、シュタイナーは何度も警告を発した。必要なときには、身を切るような怒りと凍るような沈黙でもって、人々の覚醒をうながそうとした。建て直すべきは、物質の建造物ではない。あなたの魂の中に、他者の尊厳が再建されなければならないのに、どうしてそれがわからないのか!  荷物をまとめ、人智学協会と縁を切り、すべてを捨てて、ドルナハを去るべきではないか——。この時期、シュタイナーはそう思い詰めるところまで苦悩した。彼に残された時間は、わずかだったのである。 †クリスマス会議[#「†クリスマス会議」はゴシック体]  シュタイナーが最後にとった行動はしかし、正反対のものだった。彼は人智学運動の全責任を負って、残された人生を、ただ創造的行為にのみ捧げようと決意した。  一九二三年一二月二四日、シュタイナーはドルナハの丘に「クリスマス会議」を開く。ヨーロッパ各地からおよそ八〇〇名のメンバーが集まった。ドルナハはまだ瓦礫の山である。クリスマス・イヴの午前中、シュタイナーは、まったく肯定的な態度で会議に臨んだ。開幕にあたって彼がいわんとしたのは、次のことである。 [#ここから2字下げ]  愛する皆さん、私たちは皆さんを、この瓦礫の山に招待しなければなりませんでした。けれども、一年前の新年の夜に、私たちが見たあの恐るべき炎、私たちの心を引き裂きながら天の高みを焦がしたあの炎は、この二十年の私たちの歩みのうちに、すでに燃え続けていたのです。そのことを正しく認識しなければなりません。  そしてその認識から、私たちの立っているこの廃墟はマーヤである、幻であるという感覚を、立ち上げていただきたいのです。私たちがこの二十年の間注ぎ続けてきた創造的な力が、この廃墟をマーヤであると見なす力の中から、ふたたび新たな創造的炎として燃え上がらなければなりません。廃墟を見つめる力の中から、魂の熱を呼び覚ましてください。そしてその熱を通して、どうか時代が真に求めているものを成就しようと欲していただきたいのです。  これから作っていく運動を、徹底して内面的な作業として行ってください。すべては一人ひとりの心の内でなされるのでなければなりません。私たちが語り、またともに聞くときに、互いの心臓の血が共鳴して脈打つようになっていただきたいのです。私が皆さんをここにお呼びしたのは、心臓の協調を思い起こしていただきたいという願いからなのです。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]——『クリスマス会議開会のための講演』笠井叡訳  シュタイナーはこう述べて、演壇を降りた。会議はこの後、翌二四年の一月一日まで続けられた。 「クリスマス会議」に集まった人々は圧倒的な印象を受けた。渾身の力をふるって、しかも静謐のうちに語るシュタイナーの姿は、人々の意識を覆っていた群雲を吹き払うかのようだった。人々はふたたび決意することができた。消えかけた魂のカンテラに灯がともされた。再建されるべき魂の共同体が、人々に実感された。深い感動と熱い思いを胸に、人々は自分の現実へと帰っていった。  けれども、私は思うのだ、シュタイナーは幻想を抱きはしなかっただろうと。人々が、彼の言葉によって魂を清められるのは、うたかたの出来事にすぎない。感動によって呼び覚まされた美しい心情が、いつの間にか、穢れた言動の言い訳に利用されるのを、シュタイナーはみずからも傷つきながら、何度も体験させられてきたはずである。人と人とを切り裂く宿命的な嵐の中で、他者の尊厳を守るために、独り魂の火を熾《おこ》すことが、どれほど困難か、彼は知り尽くしていただろう。深い痛手によってえぐられたみずからの魂の傷口だけが、他者のための祭壇たりうるのであるが、その覚悟を生きる人間の何と稀なことか。  でも、もうそんなことはどうでもいいのだ!  たとえ運命が日々破壊したとしても!  人間の悲しみに、歩みをとられている暇はなかった。シュタイナーには、あと一年しか残されていなかったのだから。 †最期の光芒[#「†最期の光芒」はゴシック体]  クリスマス会議に先立つこと一月半前、一九二三年一一月八日、ヒトラーはミュンヘンで蜂起した。暴力によってドイツ共和制の息の根を止めようとしたのだが、あえなく失敗し、投獄の身となる。ナチスの活動はこのあと一年三カ月、逼塞《ひつそく》する。シュタイナーはあたかもその間隙を縫うようにして、クリスマス会議を開き、最後の活動に入ったのである。  ヒトラーにすべてを託した師ディートリヒ・エッカルトは、クリスマス会議がはじまった翌日、一二月二五日に、アルプスの美しい高地ベルヒテスガルテンで死去した。臨終にあってエッカルトは、側近にこう語ったという。ヒトラーについて行け。彼は私の曲で踊るだろう。私の死を悲しむことはない。私はいかなるドイツ人よりも歴史に絶大な影響を与えるにちがいない、と。  一九二四年の年頭から、シュタイナーは病をかかえていた。それでも彼は、九月二八日に倒れるまでの間、三三八回の講演を行い、おびただしい数の人々に助言を与え続けた。九月末からは病床を離れることができなくなったが、『自伝』や協会員へ向けての手紙、著作の執筆に専念した。同時期、ヒトラーはランツベルク要塞監獄において、『わが闘争』の執筆に没頭している。  そして、一九二五年二月二七日——シュタイナー六四歳の誕生日——、ヒトラーは再起した。ミュンヘンのビュルガーブロイケラーに四〇〇〇人の支持者を結集し、ナチスを再建したのである。聴衆は熱狂し、「すべての権力をヒトラーに!」と連呼した。  シュタイナーがドルナハの丘で最後の息を引き取ったのは、その一月後、三月三〇日である。 [#改ページ]  あとがき[#「あとがき」はゴシック体] [#挿絵(img/fig4.jpg)]  大阪のターミナルにある大きな書店で、ルドルフ・シュタイナーの『神智学』を手にとったのは、一九七八年の初春、二一歳のときだった。私がその本を買ったのは、初版に載っていた彼の顔写真(右)に、とりわけその目に、いわくいいがたく惹かれたからであって、彼について何ごとかを知っていたわけではない。  名前すら知らなかったその人の本は、一読、想像もしなかった内容で私の背筋を凜《りん》とさせた。霊的なるものに対する真摯な思考が、いったいなぜ自分の中に、自由でありたいという切なる願いをかくもかき立ててやまないのか、その理《ことわり》を知りたくて、以来私は、彼の思想世界に入っていった。  本来誰のものでもない思考はしかし、私に、ただの信奉者になることを許さなかった。アジア的霊性に対する彼の評価が、一九世紀的限界と無縁でないことは明らかだったし、彼の特異なキリスト論が、ヨーロッパ精神史の陰の側面と分かちがたく結びついており、それをそのまま非ヨーロッパ文化圏に接ぎ木するのは、無理であるというより、不義であると思えてならなかった。  また、そうした彼の言説のみならず、欧米から日本やアジアへやってくる現役の人智学者の中には、近代史に対する主体的な問題意識の欠如した、ほとんど無邪気なまでの宣教師気分の人がけっこういて、それも私の額を曇らせる一因となったが、さらにその福音を涙ながらに鵜呑みにする子羊的状況とでも言うべき病理が目の当たりに展開されて、私は、近代日本が受けた精神的な傷の深さに、危機感を抱かずにはいられなくなったのである。  この間、私は絶えず、こう問いかけながら、人智学に向き合ってきたつもりである。すなわち、これを、現代の時代状況の中で真に使える認識の剣《つるぎ》にするためには、いったいどんな砥石《といし》が必要なのか、と。  私は、自分が経てきたよるべなき魂の葛藤を一塊の石にして、シュタイナーの思想を、現代という時代にひるまぬよう、日本文化の命脈に恥じぬよう、研ぎ直そうと試みた。志《こころざし》は、分もわきまえずめちゃくちゃ高かったわけで、ここにぶちまけた積年の思いに、幾度か自分で眩惑されそうになったことを白状するが、とまれかくまれ、研ぎの善し悪しは読者の専決事項である。  研磨の仕方に異論のある方もおられよう。あるいは研磨など無用のことだと、いまだに信じておられる方もあろう。私は、いたずらに論争的であろうとしたのではなく、ただ刺激的であろうとした。その刺激が、読者の思考の試金石によって、創造的なものに鍛錬されるのを願っている。  思想家の高橋巖氏と舞踊家の笠井叡氏から受けた薫陶に、本著がわずかでも応えることができるなら幸いである。筆をとらせてくれた筑摩書房の戸田浩氏、編集を担当下さった小山淳一氏に感謝申し上げる。起筆から擱筆まで、暑い、暑い、一夏の所行であった。  二〇〇〇年一〇月六日 京都・嵯峨にて [#地付き]小杉英了 [#改ページ] 【主要参考文献】 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ◆シュタイナーの著作と関連書籍 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 『神智学』高橋巖訳 ちくま学芸文庫 二〇〇〇年 『神秘学概論』高橋巖訳 ちくま学芸文庫 一九九八年 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』高橋巖訳 イザラ書房 一九八八年 『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』高橋巖訳 イザラ書房 一九九一年 『社会の未来』高橋巖訳 イザラ書房 一九八九年 『教育の基礎としての一般人間学』高橋巖訳 筑摩書房 一九八九年 『アカシャ年代記より』高橋巖訳 国書刊行会 一九八一年 『一般人智学協会創設のためのクリスマス会議』笠井叡訳 日本人智学協会 一九八八年 『シュタイナー自伝——わが人生の歩み㈵・㈼』伊藤勉・中村康二訳 人智学出版社 一九八二年 『神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀』石井良訳 人智学出版社 一九八一年 'Central Europa Between East and West'(『東と西の間の中部ヨーロッパ』英訳), The Golden Blade, 1992 'The Karma of UntruthfulnessI・II'(『時代考察』〔あるいは『虚偽のカルマ』〕英訳), trans. by Johanna Collis, Rudolf Steiner Press, London, 1988,1992 高橋巖著『若きシュタイナーとその時代』平河出版社 一九八六年 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ◆その他 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 荒井献・大貫隆他編『ナグ・ハマディ文書㈵〜㈿』岩波書店 一九九七—九八年 田島照久編訳『エックハルト説教集』岩波文庫 一九九〇年 ハワード・マーフェット著『H・P・ブラヴァツキー夫人』田中恵美子訳 竜王文庫 一九八三年 高橋巖著「神智学の系譜」(岩波講座「宗教と科学3」『科学時代の神々』所収 岩波書店 一九九二年) Helene Petrovna Blavatsky,'The Secret Doctrine'(『シークレット・ドクトリン』), Theosophical University Press, 1988 ジョージ・L・モッセ著『フェルキッシュ革命——ドイツ民族主義から反ユダヤ主義へ』植村和秀他訳 柏書房 パルマケイア叢書 一九九八年 ゴーロ・マン著『近代ドイツ史1・2』上原和夫訳 みすず書房 一九七三年 『迷宮』第二号〈特集〉ナチズム 白馬書房 一九七九年 James Webb,'The Occult Establishment'(『オカルト権力機構』), A Library Press Book, 1976 Nicholas Goodrick-Clarke,'The Occult Roots of Nazism'(『ナチズムのオカルト起源』), New York University Press, 1992 横山茂雄著『聖別された肉体——オカルト人種論とナチズム』書肆風の薔薇 一九九〇年 アドルフ・ヒトラー著『わが闘争』(上・下)平野一郎他訳 角川文庫 一九七三年 レオン・ポリアコフ著『アーリア神話』アーリア主義研究会訳 法政大学出版局 一九八五年 Alfred Rosenberg (Hrsg.),'Dietrich Eckart. Ein Vermachtnis'(『ディートリヒ・エッカルト ある遺産』), 2. Auf-lage, Munchen 1935 [#ここで字下げ終わり] 小杉英了(こすぎ・えいりょう) 一九五六年、北海道生まれの関西育ち。関西学院大学仏文科卒。ロック・ミュージックとグノーシス派の洗礼から霊学を志し、ルドルフ・シュタイナーの認識論を通って三島由紀夫の文化論に到る。著書に『三島由紀夫論 命の形』、訳書にゲオルグ・フォイアスティン著『聖なる狂気 グルの現象学』、レイチェル・ストーム著『ニューエイジの歴史と現在』(共訳)などがある。他に舞台公演の脚本として『謡曲・鬼阿闍梨』、『外典・緑の蛇と百合姫の物語』。 本作品は二〇〇〇年十一月、ちくま新書の一冊として刊行された。